守りたいもの

それがどんなに小さくても、

どんなにささやかでも

苦笑するような頑固さであっても。

 

それがあってこそ、の自分であるのなら、

それは守っていいもの。

 

苦しくなっても、守りたいものならば、

本当は『守らなくてもいいことを知る機会』にはできるのだけれど、

はい、守って、いいのだと。

 

それが、あなたの今のよりどころであるなら、

まずはそれを存分に、

自分で大切にして、味わって、

できればそれを含めた丸ごと、愛してあげてください。

 

そう、弱くても小さくても、愛されていいのです。

何より本当は、まず『自分自身から』あなたが愛されていい。

 

そうしたものへと、どうかいつか、つながりますように。

いつでも、丸ごと、自分を受け止めてあげていけますように。

 

そして、はい、私も、

あなたのその選択を、

まず最初に心から、尊重します。

 

あなたの意志を、丸ごと尊重します。

 

間違い、なんてものは、

本当の意味では存在しないから。

あなたと私の違い、を、尊重します。

 

ああ、そうだね。

過去の知人たちにも、この言葉を、改めて送り届けたい。

守りたかったんだね、お疲れさま、だったね……と。

 

このような気づきに今日、

めぐり会えたことに感謝しますm(_ _)mきらきら

 

2016_03_18

Photo by haleybossart
Pixabay

 

私ってば、そう感じてたんだね

苦しさに出会ったとき。

何の評価も加えず、採点もせず、

自分が、今、感じていることを

 

ほう……そう感じているのか 私

 

と、淡々と知り、感じていく作業。これ、大切です。

そのときは、ホントに、自分を採点するな、批判するな、です。

『私はそういう状態であるな』という事実に気づいて、見つめるだけ。

 

今までは、そんな感覚も丸ごと無視していたり、

気づいた瞬間、自分を罵倒したり馬鹿にしたり、さらには

せっかくの気づきをさらに、自分や他者への不安や怒りの文句等、

どんどん苦しくなる感情へと、自分で発展させたりしてきたと思うけれど。

 

そんなねー、隣の芝生と比べない、比べない。

痛いときは痛い。以上。

今までは、痛いことにすら、

気づいてあげずに相手に合わせたり、してきてたよね?

だから、もう、ごまかさないで。嘘、自分につかないで。

その痛さから逃げるとか、隠すとか、

そんなの無理やりやっても、できることじゃないのよ。

わかってるよね、それはもう、たっぷりと。

 

切り替えていけるようになるまでは、感じ切るしかない、

くらいに開き直る。ごまかさず全身で、ちゃんと、それを捉えてあげて、

その、捉えている自分の姿を、別の自分が、

頭の斜め上のほうから全身&心ごと、

眺めているような感じ。渦中に埋もれるのでなく、眺める自分を置く。

 

いつも自分をコントロールできていたり(とは言え、そのつもりで実は

自分の本心をごまかしているだけの人も、意外にたくさんいるけどね)、

自分の『本心の感覚』とうまく折り合いをつけて、つきあえるのなら、

その人、実はかなり、仙人か神様に近いと思うよ。

 

感情、感覚との付き合い方って、練習、必要だと思う。

とくに付き合うのが苦手な種類の感情や感覚は、誰でも持っているから。

 

たとえば私は、過去のキツイ記憶をどっぷり、

思い出させてくれる方との再会予定を間近に控え、

うーん、たぶん、ビビっている(^◇^;)

うっすらと、だけれど、不安よりも、何がどうなるか読めなさすぎて。

 

でも、それは私、仕方ないよ、うん。

どう考えてみたところで、あの一連の経験は、

私には、めちゃくちゃ、重たかったから。

 

あのとき、恐怖の大魔王降臨を、

私がピンポイントで受け止めちゃってたんじゃないかと

(つまり私がその結果、いろいろ、世界とか(笑)救ったんじゃね? 

じゃないとそれは……みたいな)、

ええ、コピーライティング能力の高い悪友(笑)から、

そんなセリフが飛び出すほど重かった。

私をよく知ってくれている友だちほど、一緒に言葉を失ってくれて、

もう、本当、そんなキャッチフレーズみたいなことくらいしか

お互いに言いようのない感じで。

 

その経験の高くて重たい壁を、やっと少し自分でも、

越えられたなあ、と思えたのは、もう10年近く前だけれど。

この先、儀式的に、いつか再会の時間が一度、来ることはわかっていて、

諸般の理由からその1回のタイミングだけは、逃げずに向かおうと、決めていた。

 

そ、れ、が、来るのです、ついに。

葬式や病院じゃなかっただけ、幸いだったのかも。

 

このところの怒濤な気づきは、このための準備だったのか、とも思えたり、

いやいや、これらの気づきが、もし、そのための準備だったのなら、

当日、じゃあ、いったい何が起こるんだろう、と思えたり。

 

願わくば淡々と語り合い、爽やかに離れたいところではある。

だが、本当に、それができるかどうかは、わからん。

あまりにわからなさすぎるので、不安というより

おいおい(^◇^;)的な気分で、ビビり、困っている私がいるわけだ。

 

ま、なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも。

なるようにしか、ならんわなぁ……とも、思うけれど。

 

でね、この、ビビっている自分を、

クスクス、笑える自分もまた、いるわけです。

あー、小っちぇーな、まだまだだな、小心者めっ、と。

プププ、クスクス、です。

まったく、責める気にもならない。

 

小さい私がいることを、笑って受け入れられるようになっただけ、

私は強くなれたんだろうな、と思える。

 

あれはもう、二度と起こらない経験だし、

そもそも私はもう二度と選ばないでいいことだし、

だから本当は、ビビることでもないんだけれどね。

 

ええ。この今の、小さい私としっかり手をつないで、

その時間を過ごしてこようと思います。

あの過去の、たぶん最後の機会となる、自分の心のお掃除の時間を。

 

練習、って、そんな感じだと思えるよ。

非難も評価も(高評価さえも)いらない、というか無駄なだけ。

あの経験をこう思えたら、自分を認めてあげられるのにとか、

そういう条件達成を自己に強いるかのような思考癖は、

ホントにもう、練習の段階からすでに、必要ないのです。

そういう自分、知って、見つめているだけ。

 

そして、それでいいのだと。

それができてから、次が突然、現れたりするから、ね。

 

2016_03_16

Photo by Hans
Piixabay

 

追伸とも言える元の方の文章と『自分』と

夜中、日付が変わった頃にアップした、一つ前の記事。

カエル姉さんの鋭い言葉は、

どうやらHappyちゃんのところから

出てきた文章のまとめであったようで。

 

Happyちゃんは、自分の体験として、

あの内容を書いているので、

もう少しわかりやすいかな、と思って

そちらもリンクしてみます。

 

ついでに、私が感じていたことは

自分を知らないまま、他人にばっかり合わせてみたり

自分の望みを表面でだけ捉えていたら、

「それさえできれば」「それさえ実現すれば」

と、自分の感覚を失ったまま、

もしかしたら本当には望んでいないものを

追いかけるハメに陥るのかも、と。

 

自分でもイマイチ、本音の部分ではわかってないことを

きっとこう、みたいな思い込みだけで他人に認めてもらおうとしたって、

その都度、そのときの都合で

自分でも適当な感覚で、説明を間に合わせるしかなくて、

でも、それだとよくわからないまま、不安から動かされ

マイナスにならないように、なんてやっちゃうから

毎回、自分の軸はブレブレになる。

 

そして自分のことが見えていないまま、

他者の深い気持ちについて感じ取ろうとしても、それって

直観力がかなりバシッと働いたときくらいじゃないと難しい。

自分軸がブレているときって、バシッとはなりにくいから、

となると、他人の思惑の深いところもやっぱり、

なかなかつかみづらいかもな……とも感じる。

 

それこそ、誰かに受け入れてほしいなら

自分がまず、自分を全部、受け入れていくしか

ないんだと思う(少しずつでも、そういう意識になっていくってこと)。

 

自分のことでイヤだな、と思う部分も含めて、

なぜイヤだと感じるのか、さらにはそれって、

自分にとって本当にイヤ、という方向しか選べないことなのか、まで、

できれば掘り下げて。

 

そういうことをほぼ無視して手抜きして、

自分とは折り合いをつけないまま、

他者に対してばかり、折り合いつけようとしても、

「私はこういうことを感じるから、

何々を望んでいます」っていう、

自分の本当の気持ちは、ていねいに伝えられない。

 

ものすごく、もったいないよね。

自分の内側のことで、

いちばんの理解者になれる、

わかってあげられるのは、自分なのに。

 

Happyちゃんのこの文章が、

何かしら、気づきとなりますように。

◎Happy さん
「自分の心を生きる第45歩~大好きな帝国の創り方~」
http://amba.to/1SJW5nF

 

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