『ドケチ』さんの例、そこから抜け出したい人の例

昨日の話の続きで、例になるもの。

『お金』や『成功』を先に受け取ろうと

している人たちの話が、

『東洋経済』のネット記事にありました。

 

今の自分の立ち位置のありがたさ、よりも、

他人がどうであるか、

のほうを見つめている人たち。

 

男性のほうは、違う方向のモノを

見ようと努力されつつはあるけれど、

本当はまだまだ、『成功』に未練ありますよね?

という感じの印象を受けました。

 

結局、自分のことを人と比べてばっかり、なのは、

女性の例のほうと、実は大差がない感じ。

 

これ、別に私も、現状で満足しろ、とか、

そういうことを言いたいわけではないのです。

自分がどこを、何を『見ているか』を、

これらの極端な例から感じていただければ……と思ったのです。

 

たとえば、幸せの「カタチのひとつ」として、

自分がやってうれしいこと、を、どんなに小さくてもきちんと見つけていき、

それが10個、20個集まっていけば、

まず気分転換がうまくいく確率、上がりますよね。

そして毎日、プチプチと自分を喜ばせてあげられるのは、楽しそうですよね。

 

『他者への貢献や愛』的なものも、

『努力』とか『達成』というような話とはまったく別のところで、

あなたが喜べるものとして、見つけられます。

 

で、この人たちが語る成功や幸せって、言ってしまえば

他者から見られたときにわかりやすいから、と

望んだ『あるひとつのカタチ』でしかない。

しかも他者軸なのです、どちらの方も、結局は。

 

なのに、それこそが本当は素晴らしい!

とだけ、信じ込んでいるから、

まるで晩年の、黄昏れたおじいちゃんのような言葉を吐いたり、

負け惜しみ、ごまかし、みたいな恋愛をしてみたり。

 

もはや自分を、負けた、失敗した、としか、

捉えて生きることしかできないのかしら……と、感じてしまうのです。

それこそ、気づかなければ、一生、この視点の部分では、

自己卑下し続けて不幸ですよね。

 

この方たちの「極端さ」の部分は、

まあね、バカだな、と笑えても、

この人たちの「視点の頑なさ」を、

バカだ、と笑える人って、今の日本には、

本当はそんなにたくさんはいないのでは……とも思えました。

もちろん、自戒も込めての意味で。

 

この話を読んだあと、どうぞ、

我が身を振り返ってみてください。

 

自分はどれくらい、

隣のみならず、他人の芝生を青く見ていますか?

どれくらい、他人と自分を、比べてますか?

そしてどのくらい、自分をあきらめ、ひとつのカタチだけを追い続け、

他の人の人生を「夢見るだけ」で、立ち止まっていますか?

 

そんな部分で何か、ヒントにしていただければ幸いです。

 

先ほど、立ち位置のことにも触れたので、あえて言ってみると、

恵まれていること、のほうを見ない……という部分だけで感じてみても、

きっと、この方たちと私たちは、

五十歩百歩なのかもしれません。

 

ひとつめ。

とてもわかりやすくて極端な『隣の芝生』視点さん。

とにかく先に、自分が受け取りたくて受け取りたくて、

でも受け取れなくて、卑下して。

出すこと、の喜びには気づかず、

自分をごまかして生きて、やがてはどうする? な例。

http://toyokeizai.net/articles/-/107994/

 

ふたつめ。

黄昏れたような言葉を吐いて、割り切りをつけようとしているけれど、

何かどこか「自分をあきらめた感」が、もうもうと立ち昇ってきます。

疲れ果てて、というのとも、ちょっと違う。

どこを見続けていくのでしょうね、この方も。

http://toyokeizai.net/articles/-/98650

 

『ドケチ』さん、と、私が呼びたくなる意味、伝わるでしょうか。

そもそもその、達成できていない欲望って、本当に、

あなたが心から喜べる『幸せ』ですか?

あなたは本当は「何を見つめている」のでしょう?

 

その面で、これらの例から、

必要な方に必要な部分が、届きますように。

 

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Photo by Unsplash
Pixabay

 

自分からは、やらないけれど……

自分は先に渡さない、でも受け取りたい。

受け取れたら、出すと思う。

そこまで自分も、ひどい人間じゃないから。

 

先に自分からは出せないけど、

相手には先に出してほしい、愛情を、優しさを、思いはからいを。

 

出せない自分に、徹底してガッカリしているけれど、

出したら迷惑かも、って怖いからやらない。

 

うん、ガンコだよね、そこ。

絶対、譲らないよね。

 

ならば、もうさ、どうしたら……って、

迷わなくてもいいんじゃない?

 

自分から先に出さないこと、決めてるじゃない、

すでにハッキリと。

 

渡さない人は、もらわない。

ただ、それだけだよ。

 

渡さないつもりなのではない?

でも相手から『先に』の部分、譲れないよね? だって怖いもんね!

相手だって、最初は怖いってこと、まったく無視してるよね?

 

自分ほど怖がっているはずがないって?

へー、そんなにも、あなたは特別で、

だから他者からも特別扱いしてもらわないと

気が済まないんだね。

自分の気が『済んでから』しか、渡したくないんだ。へー。

自分が安心させてもらってからしか、渡したくないんだね。

 

ならば、もう、求めなきゃいいんじゃない?

他者の勇気より、他者の優しさや思いやりという有り難いものより、

自分が『恵まれるかどうか』のことのほうを、優先するんだもの。

 

恵まれることが前提でしか、出せない。

それ、恵んでもらうために、という取引目的(下心)があるときにしか、

出せないってことだよ。

で、取引ができなきゃ、とたんに被害者モード突入かな。

 

ならばずっと『恵まれない子ども』みたいに、

すね続けて、恨み続けて、生きていけばいい。

悪いのは、ちゃんと取引してくれない、

あるいは『先に』くれない他者だもんね。

 

はい、そんな裸の王様に向かって、言ってみます。

「王様は裸だ!」

って、子どもなら、叫んでいいものね。

だから私も今日、たまには子ども気分で叫びます。

自分では見えてないのだろうけれど、

あなたが他者にやっていることが、

結局いつも、自分に還ってきてるんだよ。

それに自分にやってることを、

他者も、自分に対してやってくるしさ。

 

同病相憐れむ、の別バージョン、

同胞相非難する、ってところかな。

 

つまり自分のことだけしか見ない人は、

自分だけ! の人としか、関われない。

自分を否定している人は、同じくあなたのことを否定し、

ご本人のことも実は否定している人、とご縁ができる。

 

あ、これ、直接的、あるいは具体的に、

誰か特定の人に怒っている、などという話ではないですよ。

たまには、こういう表現で、

叫んでみていいかな、と、ふと思った次第。

 

もし通りすがりに刺さったなら、

なぜ刺さったか、を取っ掛かりにして、

自分が「見つめているもの」を

振り返るチャンスにしてもらえれば、幸いです。

 

自分の損得のことしか感じられないなら、

それはあなたが『ドケチ』さんだってことだから、

結局、周りには、同じ『ドケチ』さんしか、

集まってこないからね。

単なるケチを通り越した『ドケチ』さんの集い。

 

変な思い込みを外す気を、起こさないがゆえに、

『ドケチ』さんと認定されちゃう。

それが、とてももったいない、と思えた次第です。

 

ねえ、出そうよ、勇気。

他者に『先に渡す』ための勇気。

見返りを受け取るために、じゃなくてさ、

自分を心地よくするため『だけ』にやろうよ、

他者へ『先に出す』勇気が必要な、ものごとを。

 

それがめぐりめぐって、

いつかどこかから、自分に戻ってくるからさ。

それを一度、ちゃんと感じてみなよ。

 

自分の感覚を信じる勇気、は、

実はもうすでに、そうやって持てているんだもの。

今とは真逆の方向性にするだけだよ。

 

『還ってこなくても先に自分が』の勇気、

まずは単純に自分を心地よくするために、

出してみようよ。

 

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Photo by Mike Kenneally
Unsplash

 

恥ずかしいから、怖いから、ウケたいから……

最近、私は、自分の女性らしさ、の部分を

どうすれば『もっと居心地よく』自分に納得させられるか(笑)、

ということを、気に留めるようになり。

 

参考になるかな、と思って、

愛らしい感じの人を観察してみたのですが。

 

観察してみてわかったのは、

 

気に入られたいから、

嫌われるのが怖いから、

という土台から、やっておられるものは

私の参考には、全くならない。

 

ということでございました。

まさか「女性らしさ」を知ろうとして

代わりに、自分の笑いの持ちネタを増やすことになろうとは(笑)、

思ってもみなかったけれど。

 

それはしなくていいよー

 

って神様が明るく(笑)教えてくれたんだわ、と。

 

「怖がる気持ち」って、

とんでもない方向へ自分を連れていくんだなぁ、

と、改めて知る結果にもなったし、

うん、結局、自分を丁寧に扱ってみようとすることって、

どんな形であろうとも、

ちゃんとムダにはならないように仕組まれている……、

と再び、感謝もできた次第です。

 

私がなりたいものを、私が選ぶ。

 

誰に決めてもらう必要もなく、

誰に気に入ってもらう必要もなく、

やった「あと」で生まれるうれしさや喜びのみ、を

『私が』選択すればいいだけの話なのだ。

 

とりとめのない表現だけれど、

そんなふうに思えた経験でもあったな……。

 

やっぱり、自分をいろいろな方向からゆるめて、

自分が望むものはつまり、すでに内側に芽があることを、

自分にもっとたくさん、感じさせてあげようと思います。

心が喜ぶこと、心地よいものだけ、参考にしよう。

ちゃんちゃん(*^^*) ←オチはココだったよ(笑)

 

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