他人から、恵んでもらえるから「幸せ」って?

うええぇぇぇぇヽ(;´Д`)ノ

久しぶりに勘違いな発言に遭遇@リアル専門学校生。

電車の中で思いっきり「持ち物自慢」して(彼氏からの貢ぎ具合も含め!)

あるから幸せ

ってやってた……。

 

あることへの「感謝」ではなく、はっきり「自慢」だった。

私、3つくらい自慢の内容が聞こえてしまった時点でソッコー、

耳をふさいだよ(読書やめて、イヤホンで音楽聴き始めた)。

 

つまりその子は、外側の「それ」がないと幸せじゃないのかもね。

そんなふうに自分の幸せは他人に「作らせる」もので、
自分で自分の内側には作り出ないのかもね。

 

ということは、

その持ち物、なくしたら、とたんに不幸になるね。

その彼氏が「自分の望みを叶えてくれなかった」ら、

とたんに不幸になるね。くだらん……。

 

幸せになるためには大好きな誰かが

自分の望み通りに動いてくれないとダメなのかな?

……その思い込みこそが

自分を自分で「不幸せ」にも

し続ける原因

であることには、気づきたくないってか……?

 

で、相手から恵んでもらえなくなったら

とたんに「私は不幸」とか、言い始めるかな。

 

何か、外側のもので得る幸せは、

その外側のものがなくなれば必ず「不幸せ」につながる。

 

外側のそれが、自分の内側の「感覚」を振り回すからね。

しかも! 外側のものは、自分の気分次第で、

いつでも、どうにでも変化してしまう。

 

さらに言えば、自分の内側の感覚、が

外側のもので振り回されてしまうなら、

そもそも、内側から湧いてくるはずの幸せ、という気持ち、

すべて、外側に頼ってしまうよね。

外側次第でも簡単に、いつでも、幸せ、消えちゃうよね。

 

外側のものは内側をフォローしてくれる

「要素」であるだけで、幸せかどうかの本質ではないよ。

外側任せではないよね、幸せって。

 

その彼氏さんが「彼女を失うの怖さ」に、

この先も彼女に「恵み」「施し」続ければいいけれどね。

でも、彼氏さんの目が覚めたら、終わりだね。

 

彼氏さんが、自分は「恐怖心」から相手に

搾取され続けているだけ、というところに気づいたら、

搾取されるだけの関係は、やっぱり苦しいから、やめたくなるよね

(ここまで言い切れるのは、彼女が実際、

「バカから貢がせ」方面の発言をしていたからです)。

そうしたら、彼女はきっと

「なんでわかってくれないのよ! やってくれないのよ!」

って腹が立って、不幸になるね。

 

あるいは彼女さんが彼氏から搾取し尽くしたら、飽きておしまい、だね。

ほかにもっとたくさん搾取できそうな人を見つけても、おしまい、だね。

そうしたら今度は、彼氏さんのほうが

「こんなに尽くしているのにどうして!」

って言い出すのだろうね。

ブランドもの、バイトしては彼女に与えまくってるそうだし……

(最初、ブランドもの貢がせ自慢の声が大きくて、注目したのであった)。

 

この彼女さんにせよ、彼氏さんにせよ、

自分の幸せを「外から恵んでもらうもの」と信じ切っているのは

本当に、なぜなんだろうなあ。

それだと外側に向かっての「幸せ探し」、絶対にやめられなくて、

無くしたらまた次、得てもさらにまた次、次って、

ずっとこの先も、さまよい続けるしかなくなると思えるけどな。

 

今回、まともに聞こえちゃって、本気で「残念」と感じた。

その自慢が、かなり危うい土台に立っているものであることに

彼女がいつか、気づいてくれることまで、

つい、祈りたくなったよ……電車を降りてから。ああ、余計なお世話(笑)

 

まあ、私自身としては、

そういうことにさっさと気づけるようになっただけ良かった、

という話ではあるのだろうね(^o^;)

確かに、過去の自分も「それなりに勘違い」してたからこその、

うえぇぇ(=◇=;) な感想でしたわ……。

「認められてこそ幸せ」って、やってたもんなあ……思い切り。

気づかないままで「さまよう」の、

鬱になって、やめられてよかった……。

 

2015_11_11

Photo by Simon
Pixabay

 

今週、聴きまくっておりました(笑)……「ひと休み」更新

うん、いや、いきなりオタク話だよ(笑) ごめんね。

サブブログ記事の本文でも書いたけれど、

ニコ動の世界を少し、覗くようになりました。

はい、メインブログのほうでもらった「ペタ」をきっかけに(笑)

(ありがとうね! ペタなくなるの、やっぱりイヤだなあ)

 

お気に入りとなったボカロ(ボーカロイドの曲)、および

それを作詞作曲されたご本人のメジャーデビュー曲、

それぞれ3曲ずつの計6曲、アップしております。

「ハチ」さんこと、「米津玄師」さん。

 

今ごろになってかよ! と感じる人もいるでしょうが、

そもそもニコ動をまともに観始めたのが、この8月だ、許して(笑)

 

◎「見春屋」木元の ひと休み
「久しぶりの脳内リピートナンバー(笑)」
http://miharu.pleasure.jp/?p=308

 

2015_11_07

Photo by amerei
(初めての「初音ミク」!(笑) :*:・( ̄∀ ̄)・:*: )
Pixabay

 

色の違い

たとえばさ、

恋人同士の別れを、

捨てるとか、捨てられるって言うのは

なぜだろうね?

 

人は一人ずつ、別の感性を持っている。

皆、それぞれ、違う人間。

そこに優劣、上下関係をつけるのは

本当は、意味がないよね。

 

だって、赤と青と黄とピンクと緑、

ねえ、どれが一番、優れているっていうの?

 

『好きな色合い』は単なる好みの差だよね。

赤より黄色のほうが優れている、とか、

あいつは緑だったから捨ててやったわ!

とか言う人、おかしいよね?

 

そういうことに同意する人も、好みの違いを

勝手に優劣化してるだけだよね?

ホントホント、赤のほうがスゴイよ!

とか?

へー? 何それ? 

赤の人にコビ売りたいの? くだらないねー、迎合趣味の風見鶏で。

 

え? 私は黄色だ、本当はピンクじゃなきゃいけないのに!?

って、その思い込みはなんだ?

黄色が存在しないと、世の中にピンク色、生まれてないんですけど?

 

要はね、あなたが勝手に、そうやって優劣をつけているの。

あなたが勝手に、良いとか悪いとか、判定しているの。

あるいは判定してくる他者の意見を、鵜呑みにしている、とかね。

 

人それぞれに、違いがある。

すると当然のことながら、合う部分と合わない部分があって、

合わない部分のほうが大きければ、一緒にいるのが苦しくなる。

 

そこでときには、お別れが、来たりする。

以上。

 

大きな部分で合わなかったけれど、あの人の青さは

青さとして、うん、素晴らしかったなー。

青とハーモニーできたことはよかったけれど、

合わないのであれば、他の青色も知ってみよう。水色? 藍色?

あ、でも今度は、緑の人でもいいのかも?

 

別れのあとに残るのって、それだけ、でいいんじゃないの?

それ以外、何を残してるの? 

 

それにさ、実は無理して自分の色を変えてまで、

相手に合わせようとするから、関係がおかしくなったり、していない?

黄色なのに赤のふり、してみたりさ。

相手に赤のほうが好み、って言われた瞬間、

自分の青色、全面否定してみたりさ。

 

それってまるっきり、自分の良さ、放棄してるんだよね。

だって緑になんか、良いところないのよ!

って、おいおい、緑は心を落ち着かせてくれる色No.1だってばさ。

何を血迷ってるわけ?

相手の意見ばっかり? 

他人の意見が『正しい』ばっかり?

相手が常に優位?

あるいは逆に、自分がいつでも第一位?

 

それで延々、自分を見失い続けて、違いに固執し続けて、

そこから派生する不安や不満ばかり味わって、

いったいどうやって幸せになるのさ。

 

それだけ自分の色をさ、他人の都合に合わせて変えていれば、

自分が何色かも、もう、わからないでしょう?

それだけ否定したら、そこまで優劣つけ続けてきたら、

いったいどの色が本当は優れているかも、

もう実は、確信出来なくなっているでしょう?

まあ、その優劣に対する感覚自体、ただの思い込みだしさ、そもそも。

 

他人とうまくいかせるために気にすることって、

他人の意見に従うこと、だけがすべてじゃないよ。

あなたの色、私の色、それぞれの良さ、それぞれの違いを

『お互いで』知り合っていくからこそ、

違いの部分でケンカしつつも、喜びやうれしさが生まれるんじゃない?

 

黄色と緑のハーモニーから生まれる新鮮な黄緑色を、

赤と青のハーモニーから生まれる高貴な紫色を、

お互いが一緒に混ぜるからこそ、楽しめるんじゃない?

 

そのためには、あなたがまず、自分の色を知らなくちゃいけないのよ。

あなたが自分を見失って否定しまくってばかりいたら、

あなたが何色か、相手にも、まったくわからなくなる。

あなたとはハーモニー、味わえなくなる。

こっちの色に染まろうとする一方で、

新しい色合い、味わわせてはもらえないもの。

 

あなたが、自分というものをきちんと見せられる、

つまり自分を信用していかなければ、

他者からも本当の意味では信用されないよ。

あなたがどんな人か、わからないままだから。

 

だから言うの。

自分を見失って、相手にばっかりすがろうとするのは、

ある意味、自分を他人に変えてもらおうとする甘えだと。

自分の色は、自分で知り、なるほど、と確立していくものであって、

相手になんとかしてもらおう(気に入るように形作ってもらおう)と

する種類のものではないのよ。

 

あなたが、自分を見捨て過ぎていて、

あなたが、自分を知らなさすぎのまま否定だけをしていて、

なんとかしたい、とか言って、

他者に頼ろうとするから、相手はハーモニー、受け取れなくなる。

あなたに命令するしかなくなる。

しかも自分の色ばかり、提供させられている気持ちになるの。

 

そんなの、ある意味、ズルイと思わない?

緑色の良さ、赤の良さ、黄色の、青の、ピンクの良さを、

それぞれ知っていけば、いいんじゃないの?

 

え? 茶色? 大地の色、すべてを生み出す色。

黒色? すべてに合う色、違いを明確にしてくれる色。

濁った緑? うん、それはただのグラデーション、

あなたは緑をちゃんと含んでるよね。

 

ねえ、そうやって優劣をつけるから、幸せじゃなくなっていくんだよ。

もう、優れているかどうかとか、そもそもそういうの、やめたら?

『違い』に優劣をつけたがること自体、やめたら?

相手と自分の違い、許したらどう?

なぜ優劣を『つけなくては気がすまなくなってしまったか』、

そっちの原因のほうを先に、知っていこうよ。

 

それに、他者と合わせてみるなら、ハーモニーを生み出すためにやろうよ。

染めたり、染められたりする世界からは、

いい加減、目を覚まして、離れようよ。