では、その「黒さ」とどう向き合う?

今日、一本目で書いた、自分の中の『黒さ』の話。

http://miharu.feeling.jp/?p=3469

そういうものが自分にもある、ということ自体は

非難しなくてもいいのだ、と、私は述べた。

 

ならば、自分はそれとどう向き合って、どう使うのか、というと、

そこでの判断基準って(あ、私は、だけれどね)、

 『自分が「後ろめたさ」を感じることはしない』

このひと言に、尽きるんじゃないかと思う。

 

後ろめたくない黒さは、

いったんきちんと、自分の中にあることを

噛みしめてみていいのだろうと思える。

先に書いた食べものの話もそうだし、

商売として競争相手に勝ちたい、といった意識とか、ね。

 

でも、後ろめたいことを自分がすると、

そういう種類の黒さは、やがて必ず自分に還ってきて、

よけいに辛くなるだけだと。

 

なのでここからは、

その「後ろめたさ」という黒さについて、述べてみるね。

まあ、これについては、実は以前にも書いたことがある。

たとえば苦境に立たされたから、

少しくらい自分だって、 という捉え方をして、

自分だけ得をする

をやっていいじゃない、と思うとき。

 

これってそのとき明らかに、自分の内側に

「後ろめたさ」、生まれてるよね。

それを、見ないようにしたくて言い訳しているだけで、

モヤモヤしたその気持ちは、自分にとっては「本物」。

他人が気づかなくても、自分には、嘘つけないよ。

まあ、よく知ってると思うけれど。

 

で、そんな「後ろめたさ」を無視して、何かの成果を受け取ったとしても、

本気で、手放しで、心から、喜べないのさ。

その喜びには必ず元の「後ろめたさ」がくっついてるもの。

 

私にだって、それは過去に、経験のあることです。

そしてやっぱり、これは楽しくないなー、と思えた。

 

逆に、自分が悪くなくて、 でも相手が

こっちに「後ろめたさ」を押し付けてくる場合もある。

で、そういう人って必ずこっちに対して「強く」出てくる。

状況によっては、怒ってきたりね(はい、例の「お姉さん」なんかは

まさにその典型、ですね。別名、逆ギレ……)。

 

誰かが怒ってこっちに何か言ってくる。

このとき、最初にすぐ、心当たりが思い浮かばなければ、

とりあえず人間って、一瞬

「あ、なんか知らないうちに、こっちが悪いことしたかな?」

とは思うのです。善意のある人なら、普通に、ね。

 

で、相手の「後ろめたさ」を押しつけられている場合は

相手の説明を聞いても、必ずそこで

「ええ? なんでそうなるの?」という疑問が生じる。

だって「後ろめたさを感じたくないのよ!」という

相手側だけの都合を、こっちに押しつけられているわけだから、

そりゃ、そう感じます、当たり前の話。

 

このときに、自分が謝ってしまえばいいか、とか、

怖いからとりあえず、と、気持ちがひるんで、そこで折れたら、

実はそれ、相手の「後ろめたさ」を隠すお手伝いを

していることになります。

 

それを繰り返すほど、

相手はこっちに「後ろめたさ」を押しつけてくるだけで、

相手も決して「本心から心地よく」はなってくれないのよ。

要は自分で自分に、嘘をますます、つくわけだからね。

 

その結果。

せっかく「折れてあげた」のに、いずれあなたは「悪者」扱いされます。

折れてあげればあげるほど、

相手の「後ろめたさ」を増強する協力をするのだから、

相手はあなたにイライラを蓄積していく一方。

相手が、あなたに対して押しつけているものを、

あなたが拒否しないことにより「あなたが悪い」という話になる。

 

もちろん、拒否する場合も、相手はあなたに対して怒ります。

でも、こちらが後ろめたくなければ、

自分は本当は、単純に「堂々としていい」のです。

少なくとも自分に対する「後ろめたさ」、持っていないわけだから。

相手に対してわざわざ「ふふん!」なんて優位を感じる必要もなくて、

相手と自分は違うんだなー、って思って、

自分を大事にしてあげればいいだけです。

 

これはもうね、練習するしかないです。

もし押しつけてくる相手がいたら、心のなかで

『全身が映る縦長の鏡』でもイメージして、

相手に向けてその鏡を、立ててください。

で、相手がこっちの悪口を言いふらしでもしたら

「くだらん」程度に思っていてください。

実際、そんなところで相手に関わる必要ないよ、自分のために。

 

これ、やればわかるけど、見ている人は、ちゃんと見ています。

何が「押しつけられているのか」を、周囲で感じ取ってくれる人が、必ずいる。

それが徐々にどういう効果を生み出すかは、

ぜひ、自分で感じていってください。

めげないで続けてみてよかった、という事態が

やがてやってくるよ。

 

ということで。

今まで相手の「後ろめたさ」を押しつけられて来た人は、

結局、自分が自分を大事にしてこなかったんだ、ということを、

自覚していってくださいね。

相手のことも、本当の意味では大切にはできていないことになる。

大切にしたいなら、だからこそ、増強への協力、やめてあげようよ。

 

そして「後ろめたさ」を感じながらやっている方々へ。

それ、もう、やめていいよ。だいじょうぶだよ。苦しかったね、そのやり方。

もうさ、選ばなくていいよ。やめていいんだよ。

自分のなかに「後ろめたさ」を生まないで済む方法、模索していこう。

その発見をサポートしてくれる人、または気づきの機会って、

あなたがその気になって探せば、世の中にたくさん見つかるからさ。

そのためには何よりもまず先に、

自分のこと、自分でもっとていねいに、扱ってあげようよ。

 

こういうのが、私が考える「黒さとの向き合い方」です。

練習は必要だけれど、やめていったら気づけるよ、そのすがすがしさに。

そして練習を積んだほうが、あなたの人生、必ず、うれしいことも増える。

あきらめないでやっていってみてね。

 

あと、最後におまけ。

自分のことしか考えない「自分へのごまかし言い訳つき集客」を

このアメーバ内で展開している方々へ。

私は今後、常に、あなたの前に全身鏡、

セットしていくことにしますので、

そんな意図でここを訪れたら、自分の今の姿を

自分で直視しなければいけなくなって、

この先、ますます苦しくなっちゃうかもよー。

と、今日から、宣言しておきます。

 

私はあなたのごまかしの増強に関わりたいとはまったく思わないから、

スルーできるよう、そういう仕掛けを置くことにするよ。

もちろん、自分のためにもね。

自業自得なことだけれど、セットされる理由には、いつか気づいてね。

 

ま、意味不明なおまけでしょうけれど。

人の「イメージする力」って侮らないほうがいいと、

私はなんだかもう、知っている気がするので、

自分でも、使ってみることにします。

 

それくらい、あなたの思考は、自分自身に影響を与えるってこと、

だからこそ「後ろめたさ」のような、

感覚的にわかりやすい判断基準を持ったほうがよいこと、

そして、その感覚には素直に従ったほうが結局はよいのだ、ということに、

徐々にでいいから、どうか少しでも、気づかれますように。

 

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Photo by PublicDomainPictures
Pixabay

 

自分の中の黒さを否定しないでいい

人には、「生存していきたい」気持ちがある。

そしてそれはそもそも、

自分が「人間という存在」であることに基づいている。

 

って、なんだか大上段な書き方で始めてしまいますが。

今日は少し大きめの視点で、強めの言葉を使いながら、書いてみます。

 

どんなに、何をどうしたって、自分の中に「黒さ」はあります。

 

だって人間という生き物は、もともと「他者の命をいただいて生きる」ことを

選んだ存在だから。

 

これは別に、人間だけに限った話ではありません。

「光合成をする生物」以外はすべて、そうです。

草食動物だって、動物性プランクトンだって、同じです。

 

私が中学生の頃、数学の先生が言っていました。

三角錐の模型を作ってみよう、そしてそれをカットして、

断面図を見てみよう、という授業のときに。

 

断面を作るため、自分がたった今、作った三角錐を『壊す』ことになるのに、

「立体を切るとき、ここ(教壇)から見たら、

みんな必ず、笑ってるんだよね~」と。

 

破壊に対して、喜びも感じる。それが人間という存在。

だから狩猟も採集も、できるのだ。

食料が確保できることがうれしいのだ。

 

牛だって、おなかが空いているときに

食べられる草を見つけたら喜ぶでしょう。

ペットだって、ご飯の時間になれば、エサをねだる。

 

他の命をいただくことに対し、

それをより「確実」にするために、農耕が生まれ、牧畜が生まれ、

交換を容易にするために貨幣という制度が生まれ。

 

最初の最初なんて、貨幣的なものは、

自分が豊かであることに対する「感謝のツール」だったのです。

相手に贈るもの、だった。交換するためのものでなくてね。

でもやがて、交換のツールにもなりました、と。

 

おかげで私たちは今、たとえば、家に住めていたりする。

技術を持っている人に、建ててもらって、その提供に関する感謝を、

お金で渡せたから(間借りもその別形態)。

服も食料も、その他もいろいろ、対価交換の仕組みになっていったわけです。

 

そして、どうしたって、そこで必要になるのが『バランス』。

ライオンは、おなかがいっぱいなときに他の生き物を襲わないという、アレです。

狩るための縄張りを確保するという、アレ。

そこでは必ず「相対」的な感覚も、必要になる。

 

他のライオンが寄ってこないから、争う必要がないからと、

砂漠を縄張りにしたら、餓死すれすれの生き方になる。

 

ということで、豊かになることも、破壊することも、

それがときに「他のものより自分が」になることも、

生き物である以上、どうしたって本来、持っている感覚。

 

そこを観念で頭でっかちに否定したところで、

何も始まらないのだな、と、

今さらのように私、気づきました。

 

人間社会で上手に生きられないからって、

生命まで否定しなくていいのです。あなただけが悪でも下手でもないよ。

すべては、バランス

そこを上手にとれるよう、自分なりに練習していくだけ。

 

自分の欲だけで生きていたら「集団で生活する」という生き方を選んだ

ほ乳類としての自分が『疎外』されて破滅します。

「人社会」という世界だけで考えた場合、そりゃ人間関係、おかしくなるよね。

 

だからといって自分を批判し続けて『迎合』ばかりしていたら?

今度は破壊欲の強い人、「自分だけが」という欲の強い人に

搾取のターゲットにされます(ええ、またね、そういう人は、

搾取できる相手を探しているので、見つかったらどんどん、搾取されます。

なんせ搾取しても、される人が何でも「自分のせい」にしてくれるから、

搾取する側は罪悪感が少なく済んで、ラクチン♪なわけです)。

 

つまりは「黒い自分」もまた、否定するな、ってこと。

逆に「搾取される一方の存在」である必要も、まったくないのです。

 

あなたが、あなたのために「心地よい」バランスを見つけていっていい。

 

そして、他者をうらやんだり、恨んだりしているだけだと、

いつまで経っても「自分自身をないがしろ」にし続けるのだということにも、

どうか気づいてください。

 

その立場に自分を落とし込んでいるのは、自分自身です。

そこに気づいていく「勇気」も、どうか持ってください。

 

頭で考えてばかりの「お利口さん」を目指すのでなく、

「心で感じられること」を大切にできる自分、目指したいよね。

たとえばお金は、本来の「相手の能力に対する感謝のツール」として扱えたり。

そして人間相手だけに限った話ではないのかもしれないけれど、

自分のことも相手のことも同等に尊重できる形へと、

たどり着けますように。

 

広い意味での「いただきます」(=受け取る)の感謝も、
 
もっとできていけますように。

 

あなたが勇気を出して「その気になるかどうか」が、

すべてのことについて、いちばん大切なポイントなのだと、

(もちろん自戒もこめつつ(^^;))、今の私にはそう思えている次第です。

 

今日の話は、今の自分へのメモ書きでもあるから、

大きな枠になりました……。どうぞお許しをm(_ _)m

 

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Illustration by “Yin yang” by Gregory Maxwell – From Image:Yin_yang.png, converted to SVG by Gregory Maxwell.. Licensed under Public Domain via Wikimedia Commons –https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_yang.svg#/media/File:Yin_yang.svg

 

 

「瞬間の自分の心地良さ」を見つめる練習

今日は練習の話。

とても怖くて、とてもドキドキするけれど、やってみる意味はある練習。

 

たとえば認められたい人、なら、何かをするときに

「これをした結果、上司や恋人や家族や友達その他がどう感じて受け止めるか」という

発想が必ず頭の中をよぎる。それを「示した」瞬間の、相手の反応について

必ず、予想を立てようとするはず。

 

はい、この発想自体を、やめる。まるっと、採用しない。

その代わりに見つめることは

「この今の瞬間、何をどうやったら、どんなふうにどんな手順でやったら、

私が楽しめそうか

私が心地よくなりそうか

私が面白さを感じられそうか?」

のみにする。結果でなく、やること、に対して意識を集中する。

 

山のような書類の入力が目の前にあったら、

それを「入力し終わった後のこと」でなく、

文字を、数字を、打つ、という動作だけに意識を向ける。

集中して、指を動かすことのみに専念してみる。

 

料理もそう。手の動かし方、手順、火の扱い方、タイミング。

そこだけを見る。

洗濯なら、洗濯槽に投入するとき「美しく入れてみる」とか。

 

そう、「型」を味わうのもいいかもしれない。

とくに書く文字はなくても、書道の道具を広げる。

美しく整えた卓にまっすぐ座り、ゆっくりと、墨を摺ってみる。

自分の呼吸と摺るリズム。立ち上ってくる香り、墨の音。

そうしたものに、意識を集中してみる。

 

とくにやることがなければ?

お風呂に入って、シャワーをわざと、下から噴射させてみよう。

まっすぐ伸びて、散らばる水。そのカーブの美しさ。

水の筋が光を反射するところも、見つめてみよう。

シャワーの位置を少し高くして、自分に降りかかるしぶきを味わってもいいよ。

子どものとき、やった覚え、あるよね?(*^_^*)

 

そう、つまりは瞬間を味わって「自分が意識して」楽しむのだ。

書類を整える動作、ものを動かす動作。一つひとつを素早く、美しく。

緊張ではなく、集中。イメージ、伝わるかな。

 

やって楽しい部分、を見つめるの。ただ、それだけ。

時間が限られているなら、なおさら段取り、必要だよね?

では、その段取りをきちんと捉えて、一つひとつ、進めていこう。

 

こうした「100%Now」への集中。

やってみるとわかります。終わった後、ちょっとすがすがしいよ。

慣れてくると、道の歩き方一つにも、集中できるから。

 

これが何を生むかは、やってみて、気づけると思う。

自分のなかの余計な思考パターンをそぎ落とし、

自分が、自分のために、それを「味わう」という感覚。

 

あなたが幼かった頃。

きっと、シャボン玉を飛ばしたことあるよね?

あのときのあの瞬間は、自分が口から吹く息と、

できあがって飛んでいく泡だけを見つめていたよね。

その様子を見ること自体、吹くこと自体に、

自分がワクワクしたりウキウキしたり、

いずれにしても「軽く」「さわやか」な感覚を味わったはず。

 

あるいは、プールに飛び込みする前の自分。

集中して、すっと身体を整え、「なにがしかのゾーンに入る」ような感じ。

そのあとで、えいっ! って、足で地面を蹴ったはず。

 

そういう「状態」を、自分に作るのだ。

結果でなく、過程でもない、一瞬一瞬の「所作・振る舞い」を見つめる。

それが自分にとって「心地よく」なれるやり方を、瞬間ごとに、選ぶ。

瞬間の連続、瞬間の繰り返し。それを見つめ続けることで、

結果的に、後から『経過』も生まれるような感覚。

 

それくらい集中して、「自分が楽しく」なれることを、味わってみてください。

 

何も為さなくて、成さなくていいから。いっぺん本気で、体感してみてほしい。

足の指で感じる「地面や床」、指先の振る舞いひとつに至るまで、

緊張でなく「意識して感じてみる」の。

自分のやるとことそのものを、見つめて味わう時間というものを、作ってみる。

心地よくなる「やり方、動かし方」に集中する。

 

こうした所作を「選択」できるクセをつけると、

ものごとの捉え方まで、勝手に変わっていくよ。

瞬間を大事にできる意識が、自分の中に生まれるから。

 

流れる時間は、瞬間の連続。

その瞬間一つひとつは、「独立」していていいのです。

変に先回りの思考をして結果ばっかり出そうとしてつなげるから、

おかしなことにもなり得るのよ。

そうではなく、瞬間・瞬間の心地よさを、自分が意識して、積み上げてみて。

 

この練習があなたに「何らかの感覚」を、

いずれきっと、もたらすと、私には思える次第です。

 

2015_08_28