自分が耐えれば……

ストレスから過食になっても

発熱しても 下痢をしても

 
あんな経験をしたから

身体も変調を起こすのだ と あきらめ

耐えてしまわれる人がいる

 
それは まあ 慣れないゆえ の部分も ないとは言えないけれどさ

 
でも明らかに 耐える必要がないように思えること

変えていっていいことだと思えることであっても

耐える という状態が あまりにも当たり前になっている人は

到らない自分がいるから と

そちらを一番の理由にしてしまったりする

 
かなり長い間 強ストレスの状態から

逃れられなかった人に対し

それは そこまで耐えなくてもいい部類のことですよ と伝えてみたら

初めて そうですね そうなんですね 

と 気づいてしみじみされたりすることもあるのだ……

 
またね よく仕組まれてるなあ と思うのだけれど

その人の その状態を

まんまと利用しようとする人にも 出会ったりされる

あれはホント 何だろうね?

 
私も鬱のとき ストーカー被害に遭ったけれど

何を 発してたのかな……

 
どんなものを自分が発しているかなんて

自分では気づけないんだよね

でも 変な人に出会うよね

 
そしてそれを 拒否する力が確かに弱い人もいて

私はまだ 逃げられたけれど(相手がストーカーだったしね)

捕まってしまう人もいる……

 
だからさ 気づいてね 自分が 呼び寄せている面があるんだよってこと

たぶん 神さまみたいな人に そう言われているのかもしれないよ

 
とはいえ そのことに気づいていくことができるのは

その方ご本人だけだから

私は たとえ話を聞いたところで

耐えなくてもだいじょうぶ ということと

それが気づきになる日が来るのを 見守ることしかできないけれど……

 
なぜか おかしなことになる人に出会うときは

それが自分に何を教えてくれているのかを

見つめてみても良いのかもしれないよ

 
いくつかの そういう出来事に触れる機会があった私の

今の素直な感想です

 
そう 私もね たとえばあの お姉さんは

私が自分では採用しない「やり方」をされていて

それを良い 悪いの枠を外して見つめてみれば

幼い子どものように「私には」思えるそのやり方も

一部の人には気に入られるわけだから

まあ 好んで採用する人もいるのだろうなあ と 感じてはいる

 
自分が採用しないやり方を 目の前に例として

繰り広げてもらっている感覚になることがあるのだ

 
ゆえに お兄ちゃんになつく 妹 みたいなもの? とか思っている次第

(他の人から聞いた話によれば

彼女のやり方はもう少し 女性ならでは な 面があるらしいが

少なくとも私には そこまで深くは見えていないし

それが実際どんなものなのか やり合って 確かめようとも まったく思わない)

 
いろいろな人がいて いろいろなやり方がある

そのことを 単純に 静かに認めるだけでも

何を耐え 何を耐えなくてよいか

少し違った角度から 見られるようになるよ と 思えるのだ

 
もし 自分がすごく耐えてしまうことに 気づいておられる方がいて

それが自分にとって 苦しいのなら 

なぜ私は耐えてしまうのか そっちのほうを きちんと探ってみてね

 
そして自分にとっての 不必要な耐性は

本当に 本当に 手放していいからね

その勇気も 少しずつ 練習してみてね

 
違う捉え方を 採用してみるだけでも 

その 耐えるというストレス

グンと減らせたりもできるからさ

 

2015_07_13

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自分からの加害による「被害者」

今日は「他者が、世間が、社会が悪いのに!」と

『他者責め』だけに集中する方には、全く向いていない記事を書きます。

その真逆、何かあるごとに、自分を責める人に対する話しかけです。

 

新型鬱の方でなく、従来型の鬱の方に向けた話、とも言えますね。

新型鬱の方は、読んでも当たり前過ぎて、

私がこれをわざわざ説明する意図、きっとおわかりにならないことでしょう。

その点は、おゆるしください。

 

さて、自分を嫌って、しかも

良い悪いで自分を裁き続けていく限り、

あなたは『被害者』の気持ちから抜け出ません。

そして同時に『加害者』でもあり続けることになります。

 

それは、自己完結型のループです。

自分に加害する

→そのことによって自分を被害者にする

→被害者になってしまった自分を責めることで、また自分へ加害する

→自分を被害者にする……

このループに、延々ハマるのです。

 

ここに他者の存在が加わると、

もっとややこしいことになりえます。

 

たとえば、嫌われたくないあまりに、

私さえガマンすれば丸く収まる、などと

自分を別の形でも、いろいろ加害し始めるから。

 

今、あなたが自分のことをキライだと思っているのは、

その嫌な部分を無くしていきたい、

自分を良くしていきたい、と思っているからですよね。

嫌な部分を無くせないから、消せないからキライ。

 

では、質問しますよ。

良くなっていきたい、と思うのは、なぜでしょう?

見栄でしょうか? 誰かに認められたいからでしょうか?

 

では、誰かに認められたら、そのときどう感じるでしょう?

 

こうやって掘り下げていくと、気づけるはずですよ、

それをやろうとしている奥のほうに、ある気持ち。

 

きっと、薄々、気づいている方はたくさんいるでしょう。

本当は自分のこと、認めてあげたいから、

自分のことを、本当は好きになりたいから、ですよね?

 

好きになりたいのに、ならせてくれない。

 

私が、私からの加害によって、

私を「深くは好きにならせてもらえない」……のです。

 

さあこれ、どこかで思い浮かべたことがあるような

フレーズではないですか?

 

心底、好きになりたいのに、ならせてくれない、信じさせてくれない。

私に、ひどいことをするのはなぜ?

 

……どこかで、この気持ち、

思ったこと、ありませんか? 他者に対して。

パートナーに対して。親に対して。

彼氏、彼女に対して、等々。

 

そう、あなたが、自分にひどいことをし続けるから、

「結果的に」他者からも、同じことをされる「ように受け止める」のですよ。

実際、ひどいことをされたりもするでしょうしね。

 

あなたの『自分に対する扱い方』を見て、

他者も『あなたという人間の扱い方』をそこから学ぶ。

あなたが、見本を見せ続けているのです、わざわざ自分から。

 

しかも自分のことを、ひどい扱い方しておきながら、

他者が同様のことをした途端、はい、さらに「被害者」気分、にハマります。

 

責めているわけではないのです。

それ、つまりは、自分で自分をわざと、余計に苦しめているよね、

だからこそ、より苦しいし、被害者気分「だけ」にも陥ることがあるんだよ、

ってことに、気づいてほしいのです。

 

じゃあ、そのループから抜け出すためには。

あなた本人が、

よいか悪いか、

正しいか間違っているか、

という判断基準でなくて、

たとえ悪かろうが間違っていようが、

自分にとって苦しくないほうを選ぶ。

それが本当は大切なことなのだろうと、私には思えます。

 

自分が『より苦しむ』ようなことは単純に、

一切、やめていく。

その意志を持つ、ってことです、勇気を持って。

 

こんな自分にそんな親切、してあげたくないかもしれません。

だからあえて「勇気」という言葉を使います。

 

心屋さんはさらにそこで、

それでいいのだと開き直れ、

とおっしゃっていますが、

いきなり、そうはできない人もいるでしょう。

 

とくに幼少の頃から、

自分を責めることで場を丸く収めてきたタイプの人にとっては、

自分の判断基準をそんなふうに変えることは、

イコール、他者から責められること、

その恐怖心に、回路が繋がっているかと思います。

 

そんな『他人から認めてもらえなくなりそうなやり方』なんて、

怖くてできない、と。

 

でも、苦しいくせにそうでない振りをする、

ウソのあなたを認めてもらっても、自分で本当には、喜べないのです。

ウソをついている自分は、本当のあなた自身の『実力で』

認めてもらっているわけではない。

何より、他者に「ウソをつき続ける」という、

ひどいことを、してしまっています。

 

そして他者もまた、それがウソであることは、薄々、どうしても感じてしまう。

どうしても、うっすら「あれ? なんでそんな無理をするの?」という

不可解さを、あなたに対して感じるのです。

 

つまりその『ウソをついて無理する』というネコの皮、はがれています。

ところどころ、必ず、何かの拍子に、はがれます。

うれしくならないほうを、あなたが選択するからね。

 

だからこそ、人間関係がややこしくなりがちなのだと、思えますよ。

 

もう一度、言います。

自分にとって、より、苦しくないほうを、選ぶ。

ガマン耐性が高い人ほど、

あっちもこっちも苦しい、という状況に陥りがちですので、

最初は「苦しみが少ないほう」を、選んでください。

それがたとえ常識外れに思えても、です。

 

そうすることで初めて、あなたは『自分が今まで捉えていた常識』、

その枠の狭さに、気づけるようになります。

 

あなたの『良い』『正しい』の判断基準の枠は、

無理を続けてきた結果、すごく狭く、小さくなっています。

 

どんどん、恐怖心を大きくして、どんどん、可能枠を狭める。

針の穴くらいしか「許可」が出せない状態です。

そして枠の外側は全部、

他者か自分を責める材料に変えてきましたから、

その枠は本当に、狭くて小っちゃく小っちゃくなってしまっているはず。

 

だからこそ、良い、正しい以外のものを、練習してみるしかないのかも、と、

私には思えるのです。勇気を出して、ね。

 

練習ですから、最初は、行きつ戻りつ、するでしょう。

相手がいれば、その人に上手く伝わらないことも、起こりうるでしょう。

 

でも必ず、確実に、自分の器は大きくできます。

不必要な枠を外してみることになるので、

そりゃね、器は、大きくなりますよ、勝手に。

 

そして「より苦しくないほう」を、見つけられるようになったら、

今度はさらに「自分が心地よく感じるほう」を

選択基準に加えてください。

これを加えることで、意図しない「他者への加害」も、

ネコの皮の厚さ、枚数も、ぐんと減ります。

それが減れば、また、自分への加害も、減らせるでしょう。

 

良い、悪いではない、判断基準。

自分の気持ちの奥を探るのが、苦しくてまだまだ難しい人は、

それこそ「より、自分にとって苦しくないほう」を、選んでみてください。

 

そうやってあなたに、少しずつでも新たな気づきが、

どうか生まれていきますように。

 

2015_07_10

Photo by netzanette
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すること、してもらうこと

今日はざっくり、抽象的に書いてみます。

 

ひとりって、できることが単純に、限られます。

 

たとえ作家さんであっても、

創作活動以外のところでは、

他者の力、他者の助けを借りている。

 

ましてや労働をしている人なら、

雇ってもらえた(それがバイトであってもね)段階で、

あきらかに他者の力を借りているのです。

 

だって仕事もしないウチから、

あなたを信用して雇ってもらえたのだからね。

雇い続けてくれているのなら、

あなたの力をずっと信じてくれている、ってことにもなる。

 

そして逆の立場、周りの助けをもらえるということは、

「助けている人、その本人の実力を発揮する機会」を、

あなたが提供してあげているということでもあり……。

 

そんなふうに、お互い、向いていることを、それぞれ分担する。

それがあなたひとりでやるより、よりステキな結果を生み出せること、

たくさん、たくさんあるよね。

 

とても大きな枠の例で言えば、

おいしい野菜を作れる、しかも農作業が好きな人がいてくれるから、

それを私たちは買うことができる。

そして買うことで、作ってくれる人を助けてもいるのだ。

 

さらには、そうした「他者が力を発揮する」場を、

あなたが提案して作ったのであれば、とても素晴らしいこと。

 

労働まで含めての広義で、助けても助けられても、

どちらにしてもお互いさまで、お互いのためになる部分がある。

 

だから、あらゆることにおいて、

ひとりでやってるんだと思い込んでいる

オレサマ系の方々、勘違いしないでね。

心や身体が弱って助けられている方々も、勘違いしないでね。

それこそ人には、いろいろな「役立ち方」があっていいし、

それを両方、許可する、受け容れることで、

感謝とありがたさと喜びの量は圧倒的に、

増えると思えるのです。

 

どっちかがダメで、どっちかだけしか良くない。

そう思い込んでいる人ほど、

心の孤独を味わうことにもなり得るのだと、

私には思える次第。

 

ありがたく受け取れて、ありがたく差し出せる。

私はその「状態」自体にも、感謝していきたいです。

 

この今の社会で生きている段階ですでに、

あなたは役立っているのだから、そこは安心してね。

 

サービスだって、提供しようとしてくれる人がいるから成り立つよね。

そして提供する側は、受け止めてくれる相手がいないと、

それこそ「提供」なんて行為がそもそもできないのだから。

 

仕事を例にすることで、少しは伝わりやすいかな、と思って書いたけれど、

これは、あらゆる身の回りのことに、当てはまる。

 

あなたは何がどうしたって「ひとり」ではやっていられないし、

私には、これはどっちが偉いとかいう話でも、

本当はないのだろうと思えること、なのです。

 

2015_07_08

Photo by トルペグ