カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

真剣 と 一所懸命 の違い

本日2本めの話は、自分の気づき報告。

また「おおっ!」と、唸る言葉に出逢えました。

えーと、それを見つけたのは自己啓発と言えなくもない本の中で、

要は「引き寄せ」とかに分類される書籍なんだけどね。

 

この手の宗教的なもの、精神的なものって、

そこから自分が何をつかんでどう活かすか、だと思っているので、

店頭でパラパラしてみて気になったら、それこそもう、

イスラム世界観の話でも、医学・物理学寄りの小難しい話でも、私は読みます。

はい。すみません、雑食の活字中毒者で(笑)

なので大きい本屋は、私の生活には必須条件なのです(^◇^;)

 

で、本の紹介は最後にするとして、言葉のほうの話。

真剣、は大切だけど、

一所懸命(書籍では今風に一生懸命、となってました)は、

真剣とはちょいと違うよ、ということ。

 

これ、やり過ぎて壊れる系の、

私みたいな(笑)タイプには刺さりましたの。

真剣は、真摯、真面目、本気、決意、につながるもので、

一所懸命は、必死さや焦り、恐れからくる努力も含む、

つまり周囲を気にしすぎてしまう、という視点が混ざっている。

 

あるいは本気の真剣さは、静かで芯のみが固く、落ち着いているもの、

一所懸命は、熱くて汗まみれ、でも少し慌てていて、

つまりはその場をまずなんとかしようとしているもの、

と、言えるかもしれない。

 

厳しいようだけれど、一所懸命、

つまり必死になりすぎると、自分で自分の視野を

狭めてしまう危険性が伴うな、と思うのです。

 

頑張る、の色合いが違うということかな。

以前、私は、マイケル・ジャクソンとマザー・テレサの視点の違いについて

記事を書いたことがあるけれど、

これで言えば、マイケルは一所懸命で、

マザーは真剣だった、とも表現できそう。

(過去記事→自分を信じるということ(1) この話は(2)もあります)

 

はい、もちろん私も、前はこの違いには気づいてなくて、

それゆえに鬱になったのかもね。

自分が満足したいんだ! と思っていたけれど、

実は、他人から認めてもらいたがっていた、

結果だけでなく「一所懸命さ」もまた示していれば、

頑張っていい点数取れたね、って、言って「も」もらえる。

そうした方向のおびえ、それゆえの意図を、含んでいた……。

 

それが必ず、努力したい理由のなかに存在していて、

なのにそのことにはっきりとは気づかず、

目の前の「やること」に集中しよう、

というより、おぼれようと意識してた。

その部分しか見えてなかった。

 

真剣さは、もっと冷静に見渡すのです。

でも、おぼれたりはしないし、その視野には他者評価が含まれていない。

他者のほうを見るのでなく、自分がどうやってそれを実現するか、しか見ない。

他者評価も、失敗さえも、その視野にないのです。

うまくできるまでただ試行錯誤を続けるだけ。実現への道のみ。

 

私は今後、何かやりたいことを具体的に思いついたら、

そういう「真剣さ」のほうで、

目標を見定めてやってみたいと思えるし、

普段からやることも他者評価を強く気にするのではなく、

物事、やることそのものに対して、丁寧に、真摯に、向き合いたい。

どうせやるのなら、そうでありたい。

改めて、そう思えたのでした。

 

だってそのほうが結果的に、自分が心地よく満足できそうだし、

なかなかうまくいかなくても、焦ったり

周囲に振り回されて流されたりは、なんとなく、しないで済みそうだもの。

変更は可能だけれど、あくまで自分の軸は、揺らがない、って感じかな。

上手に、遊び(ゆるみ)も含めていかないと、真剣さを長く保てなさそうにも思うよ。

少なくとも「おびえる」ことは、真剣さには必要ないよね。

 

ということで、なんか宣言みたいになってしまいましたが(笑)、

一所懸命からはもう卒業して、

「真剣さ」のほうを、来年以降は心掛けてみたいと思えます。

日常生活でも、また、何かやりたくなったことにおいても、丁寧に。

そのほうが、何より自分で自分を無茶させず、

喜びの範囲から物事に対処できそうで、楽しみ。

 

あるいはそういう感じの「やりたいこと」っていうのを、

真剣に探してみる、ってのもアリかもね。

何かをする、静かにその覚悟を決めてみる、という試み……。

 

2014_12_28_2

『マスターの教え 文庫版』
ジョン・マクドナルド 著
山川紘矢・亜希子 訳
飛鳥新社 刊 ¥550(税込)

http://www.amazon.co.jp/dp/4864103879

 

 

欠点を消す戦い

自分の欠点と思える部分は

確かに自分で あれこれ工夫してみるチャンスだけど

安易に取り去る 消すことで 何とかなると思うのなら

それは何かズレてないかな と感じる

 

見た目のことを例にして話してみると

美人と言えなくもない範囲の人が

自分の顔のパーツで悩んでいたら

他者からは 贅沢だと 非難され

 

本人がブスだと思い込んでいる人が

自分の顔を他者と比較し評価する話をしたら

それはちょっとひがみすぎじゃない? などと言われる

あるいは自分でそう感じる

 

結局 自分で自分を悲しくさせるうえに

どっちにしても 他者からは ある意味 非難されるのだ

 

でもね 美人であっても

それを競う世界観の中に 自分がいれば

欠点はきっと 山ほど見つかって

自己卑下して悩みまくるわけだし

自分の顔がブスだとか卑屈に捉えないでいる人は

お化粧なんかもいろいろなやり方で 楽しんで過ごせている

 

そう 欠点を消す あるいは埋めることって 

本当に気をつけないと 際限がなくなっちゃうのよ

 

体重落としたい で 激やせしたら 幸せがやってくることが

確定してるのかな?

いや いいんだよ 本人が 自分の自信につなげるために

外側から変えるの 確かにアリだよ

もっと言えば 例えば 美容手術の力を借りることだって 否定するつもりはない

 

ただ そのやり方で 上手にきっかけをつかんで

本当に本物の自信を 自分にもたらすことのできる人が

どれくらいの割合でいるのかな? とは思えるんだ

 

顔を 作り替えました で十分満足するかな?

今度は脂肪を吸引したくならないかな?

脂肪を吸引したら 今度は吸引しても変わらない

ウエストの太さが気にならないかな?

ならば次は一番下の肋骨 削り取ってみる?

肌は 日焼けしてない部分の細胞を移植します

しみはすべて レーザーで消して シワも切り取ります

 

そのメンテナンス作業

延々 自分を削り取る作業

どこまでやれば満足するかな?

 

しかも 評価するのは他者だよね

ならば 誰の意見に照準を合わせ

自分を削り取る作業を 続けるのかな?

 

これは 自分の性格や気持ちの問題でも

同じようなものだということ わかるよね

嫌って ひたすら削り取る作業 を続けていくと

いつまで経っても どこか不満が残りかねない

 

だって それらは悪いこと いけないこと なんだもの

あなたは 他者から否定されたこと 即 イコール

自分のいけない部分 という発想だけに 陥ってないかな?

 

もちろんさ 自分の意見のみ重視して 独りよがりで

他者を平気で傷つけるとか そういうのは別次元の話だよ

他者を気にする人って そっちへすぐ話を置き換えちゃうけど

それはそれでまた 極端な思い込みじゃない?

単純に考えてみて 言われたことを どこまでどういうふうに気にするかは

自分が選んでいいはずだよね?

 

だって人はときに 自分自身の抱えている問題を

他人に投影して 自分の身代わりとして他者を責めることがあるから

 

なのにそれを踏まえず 相手の言葉を100%鵜呑みにして

すべての批判を受け入れて その言葉通り 自分を非難して

ひたすら 自分だけを変えるの?

 

何かを 無くしさえすれば 逆に得さえすれば 

他者から本当に認められるの?

他者から認められ「さえ」すれば

私は幸せに「なれるんだ」という自分のその視界って

不安定で あやふやすぎないのかな?

 

私は足りない 私はダメ

だから 何とか 何かを得れば 

あるいは消してしまえば

なかったことにしてしまえば 幸せに「なれ」る

つまり私は いつも不幸 過去も今も未来も 自分の不幸は 確定中

その捉え方のほうを先に何とか 削り取ることを考えたほうが

よっぽど早く 余分なお金もかからず 失敗も恐れず

自分を幸せにできると思うよ

 

削り取る の真逆で 足す もあるよね

お金とか 筋肉とか 肩書き とかさ

いずれにしても 幸せの不足 を 埋める作業

 

うん その不足分は 他者からの評価で 埋めなくても

自分をどう大切にするかのほうで十分 補えるし

そっちのほうが リバウンドや劣化の「恐怖」もなくて

よほど 自分が楽だと思えるよ

 

ねえ そういう他者視点を含めた幸せを 考える人って

そもそも 人を傷つけるの 苦手だと思うから

よほどでない限り ひどい独りよがりには

ならないで すむと思えるよ

 

他者の気持ちも 大切にできる人なんだから

心地よく それを活かそうよ

自分を傷つけるほうに使うんじゃなくてさ

 

他者の意見だけを 鵜呑みにするのでなく

自分でも自分を 満たしてあげることの

いったい何が いけないのだろうね?

 

2014_12_28_1

Photo by Geoffrey Whiteway
Stockvault

 

蒔いた種、の話

あなたは過去に、ある目的を持ち、

何かをしよう、成そうと、種を蒔いた。

その種を、育てようとした。

 

だけど晴れの日だけでなく、

雨の日も雪の日もあるように、

あなたの蒔いた種も、日々、

知らなかったいろいろな経験を

積んでいくことになった。

 

そんなの、知らなかったよ! と、あなたは言うかもしれない。

ここまでの想像なんて、出来なかったんだ!

アイツがあんなことをしてくるなんて!

 

うん、そうだね。

種を蒔いたときには知らなかったことを、

蒔いたあとに、わかることはある。

そしてそれが『自分の想像』を越えていたら、

そりゃ当たり前の話、あらかじめ予想することは難しい。

 

でもね。

困難は、どんなときにも、どんな場合にも起こり得る。

そのことは、知っていたよね。

 

そして、この困難というのは

「あなたにとって難しいと捉えられること」であって、

そう感じない人も、いるかもしれないことも。

 

自分には困難なことを、他者がやっているとき。

それは自分を伸ばしていけるチャンスであることも、

また事実ではあるんだ。

たとえ自分には向いていないことだとしても、

やり方の練習だけなら、他の人から学んで、できるから。

 

学ぶ気になれない、どう考えてもそれをやりたくない、っていうときには

もちろん無理する必要はないけれど、

そうでなく、本当は自分もできるならやりたい、と思える範囲のことなら、

苦しくても「よい練習」「よい別の学び」の環境は、

揃っているとも言えるのだ。

 

簡単な具体例を挙げてみようか。

口やかましい上司やお局さまとも、適当に距離を置きつつ、

差し障りのない範囲で付き合いをこなしている人。

だからと言って、へりくだったり、

陰で悪口・罵詈雑言をまき散らしたりもしない人。

 

じゃあその人は、どんなことを思いつつ、対処してるんだろう?

そこにはどんな「考え方」が、潜んでいるのだろう?

 

そういうふうに、もっと大きな視野で、

周りも含め別の視線で見渡してみることで、

今まで知らなかった世界、知らなかったやり方が

自分の周りに広がっていくことも、けっこうある。

 

上手くいかないから、と、想像の範囲から離れることもなく、

自分や相手にダメ出しをして、そこにとどまっているだけでは、

見えてこない世界があるかもしれないのだ。

 

それにね、少なくとも困難が来る前に、その状況に身を置いた、

その環境を選んだのは自分なのだから(たとえ無理やりだったとしても、

何らかの理由から、それをあなたは『許可』したはず。

逃げ出さず、そこに自分を置く、または至ることを、

イヤイヤであっても『受け入れ』はしたはずなのだ)。

 

だったらその「イヤなこと」からも、学べることは、あるのでは。

それらを自分のために、吸収してみても、いいのでは。

それによって、あなたの枠は、広がっていくのだから。

 

たとえすぐには上手くいかなくても、やがて、上手くいくかもしれないし、

また、状況そのものも、変わるかもしれない。

少しでも見渡し、自分が吸収できそうな部分に目を向ける『習慣をつける』、

その練習だけでも積むことはできる。

 

もしかしたらだよ、『習慣を見つけて積んでみる』を練習するためにこそ、

あなたはその場所に、自分を連れていったかもしれないのだ。

 

思ったことを上手にできることが、すべてではないんだよ。

当初の願いを叶える、その方向の成功だけが、

決してすべてではない。

 

失敗は、あなたがそう捉えるからこそ、

失敗というラベルを貼られる。

このことはこれまでにも何度か言ってきたけれど、本当の話なのだ。

 

であるならばもう、失敗、というラベルを貼るのをやめようよ。

当初、学びたかったこととは、違う学びになったとしても、

あなたの枠が広がるのであれば、それもまた良いこと。

 

それがもしかしたら、この先の自分にとって、

とても大切なきっかけにさえ、なるかもしれない。

 

ときには「休んでみる」という行為さえ、練習を詰めるのだからね。

 

自分が蒔いたと思った種がヒマワリでなく、

バラだったりあるいは芍薬や牡丹だったら?

思いがけず咲かせられたら、うれしくないかな?

そう、予想外であるならぱ、

それこそ、育ててみないことにはわからないんだよ。

 

だからね。

すぐに何でもあきらめないで、あるいは想像通りにならないと

怒ったり落ち込んだりばかりしていないで、

最初に何かを蒔いた、この環境を選んだのは自分だから、

学びになりそうなことを、探してみようという視点も、

持ってみていいと思えるんだ、自分のために。

 

文句や不満や自己卑下ばっかり繰り返したり、

上手くいかないからと苦しみだけを捉えないで、

他の部分、という意識を、少しでも持ってみてもらえればと願うよ。

 

あなたに超えられない壁は、そもそも、あなたのところに来ない。

これは他の部分に視野を広げてみることも含めて、

私には真実だと思える。

 

目的・目標に向かい合まっしぐら、も確かに悪くはないけれど、

何が何でも「予想通り」にこだわるのでなく。

種を自分が蒔いたことをゆるし、

蒔いた種から、想像通りの成果も、思いがけない実りも、

あなたがたくさん、受け取れますように。

 

2014_12_24

SWITCH BOX