カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

酔いしれ、の裏にあるもの

先日、わが国の首相さまが、女性の人材登用を促進するために

「輝く女性の活躍を加速する男性リーダーの会」を

立ち上げられたそうで(爆)

(情報源としてはFBで教えてもらったこの記事がわかりやすいかな、

http://www.huffingtonpost.jp/satetsu-takeda/story_b_5341480.html )

その人材の適格性、そうした中身云々より、何が何でも女性の地位を

とりあえず向上させたように、国際的には見せかけちゃうもんね、な

気持ちがあまりに率直に現れすぎていて、

噴飯モノ、とあきれるはるか以前に

「も~、アベキュンたら、このお茶目さん♪」と

思わずほっぺをツンツンして差し上げたくなります(笑)

そうやって海外の人の「冷たい視線」をなんとか

ごまかしたくなる感じの(笑)(とくにEU圏の方々なんて

男女問わず、その意味を知ったら絶句されちゃうと思いますよ)、

「子どもっぽさ」にも通じる率直……愚直ぶり、なんでございますが……。

さらに、上の記事では「男女雇用機会均等」についての

今年のキャッチフレーズ「家事場のパパヂカラ」についても、 

そもそも引用元が「火事」ってところでもう、対岸から眺めてる感アリアリだよ、

そしてパパは「家事」の中身を全部ちゃんと「理解」(つまり把握、では

ないわけですよ、その重要性と365日続くことの大変さの理解、ね)は

してるのかよ、というふうなツッコミも入っており( ̄▽+ ̄*)笑えました。

あ、政府批判の記事ではございませんのですよ、

タイトルに書いた「酔いしれ」に通じる例、ですね。

ある程度、守られた地位や栄誉についうっかり酔いしれると、

見えなくなることがたくさんありますね、と。

このラインでついでにもうひとつ、愚直例を挙げるなら、

日本の「国営」ではなく「公共」放送であるはずのNHKを

さらに「第三者的に」監視する立場の、経営委員会の某委員さまが、

なんと軍を持たない太平洋のバヌアツ、ナウルについて

「家に例えると、くそ貧乏長屋で、泥棒も入らない」と

ご発言になられたそうで。でもバヌアツ、情報によると

国の経営的には「ほぼ無借金」で成り立っておられるそうで、

だったら日本のほうが収支的にはよほど借金地獄の貧乏国ですよ……。

日本が戦争したときの記録情報(そこに涙系ストーリーをくっつける)

小説をたくさんお書きなくらい「戦うことLOVE!」な方ですものね。

きっと、「強さLOVE!」「強くなければ人間じゃない!」

そして「オレは強いぜ! 偉いぜ! かっこいいぜ!」という

脳内丸ごと「筋肉ムチムチ系」の方なのであられましょう。

そういえば、敵陣を「人間のクズ」とも言い切れるお方ですし(笑)

なぜこんな極端な例を出したかというと。

これ「傍から見ると」ちょっと恥ずかしいですよね?

(あ、そう感じられない方はごめんなさい、私はムチムチ系を別に

「否定」まではしていませんので、お許しくださいね。

自分や自分の周囲の人とはまったく違う思考、と思っているだけです)

で、なぜ恥ずかしさを感じるかというと

先に書いたように、そこに「酔いしれている」感、

例に挙げたものだと「酔いしれまくってる」感まで

見え隠れするからだろう……と、私には思えています。

はい、思いっきり「自己陶酔」、というヤツです。

これ、別に「他者を見た場合」に限りません。

私も先日、たまたま、10代中盤のころの自分の日記を読み返したのですが、

まあ、そこで悩んでいることになんとも青春の「匂い」がして、

青臭いうえに酔いしれていて(とくに片思い恋愛語り系)、

読んでいくうちに顔から火が噴くどころか爆発炎上しそうでした(笑)

そうなんです。

「酔いしれている真っ最中」のときって、自分では、気づかないのです。

過ぎてしばらく経って、あとから「自分で火を噴く」ことになるのです。

でね、ここから真剣に、真面目にいきますが、

「私ってかわいそう」という気持ちも、いずれ、

自分で火を噴くことになるかと思います。

「かわいそうごっこ」をしていた自分が、

「恥ずかしい」って、思っちゃう。

今の私が、鬱のときの、いちばん「死」に近かったときを思い出すと、

「苦しかったね、私」という共感とともに、

それが自分自身のことであるがゆえに、どこか「恥ずかしい」感も

うっすら、漂うわけです。「気づけてなかったなあ」と。

鬱というのは「病気のレベルまで達してしまった苦しさ」です。

そんな、脳みそが勝手に誤作動してしまった、

自分ではそのとき、どうしようもなく

そっちへ思考が傾いていった「病」の記憶でさえ、

あとから振り返ると、自分自身ではうっすら恥ずかしい。

だからね。

「かわいそうごっこ」にどっぷり浸っている人で、かつ

友人や身内など、身近に知っている人の場合だと、

「なぜそこにとどまって、特別扱いを望んで

『変なお得感』を受け取ろうとするの?」という

怒りの混ざった疑問とともに、私はたぶん、

「そういうことをするその人の、酔いしれっぷり」に対する

根本的な恥ずかしさ、も感じているのかもしれないなと

思えたわけです。

も~なんか、やめようよ、その「悲劇ドラマの主人公っぷり」はさ、

みたいな感覚。

魔法使いが現れる前のシンデレラかい? うきゃっ(/ω\*) と。

で、これが、あまり話したことのない他人になっていくほど、

つまり自分からの距離が遠くなるほど、

「怒りや疑問」より、「恥ずかしさ」のほうをより多く

感じているのかもな、と思えるわけです(だって、

自分と違う、と思ってしまえば済む距離の人だと、

怒りは消えていきますからね)。

鬱が恥ずかしい、と言っているわけでは決してないので、

その点は誤解しないでくださいね。

鬱という状態そのものは、本当に苦しいと思っています。

そうでなく「かわいそうごっこ」、その感覚に対する話。

ミジメな自分、恵まれない自分、かわいそうな私。

それって、自分でもあとから、また他者から見ても

「恥ずかしい」につながっていくんですよ、きっと。

自分の「できない点」に酔いしれているのだということ、

それは「自信過剰」が恥ずかしく思えるのと同様ですよ、と。

なので、どんなに今「メリット」をその状態で感じていたとしても、

そこから抜け出したほうが、よほど自分の苦しさを

軽減できますよ、そしてそこから抜け出すことは

「何もない自分」を見つけてしまう、そんな怖いことではなく、

「何か新たにできるかもしれない」自分を見出す道へと

よっぽど早く、通じますよ、と、お伝えしたいのです。

念のため、かわいそうごっこ、と私が呼んでいる状態について

過去の記事もリンクしておきます。

http://miharu.feeling.jp/?p=1651

心当たりがもし、あるのなら。

あなたがそこでその状態のまま、ずっと苦しいのは

あなたが自分でかわいそうごっこのほうを選んでいるゆえなので、

それを「やめる勇気」をぜひ、もってくださいね。

あなたはそんなことをしなくてもだいじょうぶで、

そんなことを選ばなくても、もっともっと、素晴らしい力を秘めた

かけがえのない、唯一無二の人なのですから……。

もし今は、それを選んでしまっているのだとしても。

いつかあなたに「恥ずかしかったわ、あのときの私」と

思える日が少しでも早く訪れますよう、心から祈ります。

本当に、そこから離れても、だいじょうぶ、なのです。

 

もう、まさに、その通りヽ(^^ )ノ

珍しく(?)こちらで、本の紹介を。

ふだん、私がここでブログ内容について

ときどき話をさせてもらっている心屋センセの、

『心屋仁之助の 「ありのままの自分」に○をつけよう』

心屋センセは「嫌われてもいいからピシッと言う」ことを

実践されている人で、ブログでも「書籍はここと同じことを書いてる」と

おっしゃっているのですが、書籍の形になっていると

「要点をまとめて、一気に話しかけてもらえる感じ」という

メリットがあるので、気に入ったタイトルの本は買うことにしました。

で、この文庫本は、冒頭でいきなり

「ありのままの自分を認める」

=「すべてうまくいく」ことではない

と明記されています。

そりゃ当たり前、もしそうだったら、もっと昔からみんなそうしてる。

うまくいかないから試行錯誤して「努力」してるんじゃないか!

(あるいはアキラメきってるんじゃないか!)と

怒る人が多いのもよくわかります(笑)

でも「ありのままの自分を認めた」ほうが、

「早くよい状況へつながる」ことは、多々、多々!! あるわけです。

なぜか?

何より、いちばんに「自分の気持ちがラクになるから」。

それによって自分がラクに「動ける」ようになるから。

「そのとき、そのときの気持ち」を、

それぞれ大事にする、のが先、なわけです。

けっして「上手にできること」や「立派な心がけ」だけが

素晴らしいわけではなく。

もっと言ってしまえば、

「素晴らしい目標の達成」だけがすべてなのではなく。

そこに至る「過程」そのものを味わえないと、

目標を達成したら、そこで終わっちゃう。

その「次」はまた、「目標」を見つけなくては「いけなく」なってしまう。

頭でっかちに「こうあらねば」

(そして自分にはできないと落ち込む、あきらめる)人は、

過程をみていない、というか、そこを結構、無視する。

こうなりたい、という「結果」だけを夢想し、

そこにだけ、価値を置こうとする。

ゆえに達成できてないとまたすぐ「今日もダメ」と落ち込む。

上に書いたことは極端な言い方、なのだけれど、

そういう「傾向」にある人なら、理解していただけると思う。

私がその傾向にあった人だから(今もまだ少しそれが残ってるから)、

このように表現してみました。

で、もう一度言います。

「ありのままの自分を認める=すべてうまくいく」ではない。

それでも、なんとか、やっぱり、

できるだけ早く「うまくいかせたい」なら、

まず先に「今の自分を、今の自分でも、ヨシとしてあげる」ほうが

はい、結局は、それがいちばん早いのですゼ、ということです。

しかも毎日が、苦しくなくなる。ラクになる。

この本で一度、それについて「詳しくまとめた話」を読んで、

そのための言葉を「たたみかけられて」みてください。

自分の「頭ばっかりで考えてしまう、『頭でっかち夢想』」を、

外せていけるように。

そのほうが、その「夢想」(つまり最初はただの願望)を

ちゃんと現実化できる「目標」に変えやすくて、

目標にしてからも、すぐできなくても、苦しくなくなっていって、

そうするとなんだかんだ「継続」できるので、

達成もしやすくなりますよ、と。

さらには、他者や周囲の環境、状況にも、自分が

感謝しやすくなって、感謝しやすくなるということは

周囲に対して優しくなれるってことで、

自分が周囲に優しくなれるってことは、結局、

周囲からも「優しさ」を返してもらいやすくなります。

循環、だからね、そういうのって。

文庫なのに最後に「カード」のおまけもついていて、

いやあ、印刷技術が上がるってすごいな、と。

こういうのももう、安価にできるようになってきているわけだ。

でもこれもすべては、その夢を「思う」ことから、始まるのであって。

書籍そのものに、挟み込みではない「おまけ」をつけるという「発想」、

それを「目標」にしていく努力(実際の行動・つまり練習)、

それがやがて可能になる……実際に法律も変わって、技術も向上して、

そういう「環境」さえ、変わっていく。

はい、だから「夢想」そのものは、別に悪いことではないのです。

でも一気にいろいろ全部、するすると「すべてうまくいく」わけはなく。

そのときに「自分をありのまま」でOKにしておいてあげることが、

「めげなく」「折れなく」なりにくくなるコツ、に変わる(!)。

「頭でっかち」のままで、すぐめげて落ち込むよりは、いいと思いませんか?

うまくできないから、とおびえたまま、何もしないよりは、

うれしくなれる機会が、増えると思いませんか?

てなことで、はい、メインブログで初めての、

意図的マワシモノ気分(笑)で、ご紹介しておきます。

『がんばっても報われない本当の理由』の本も

わかりやすかったけど、こっちはさらによかった(笑)

がんばってる人、だけでなくて、

「自分はがんばれていない」って、

つい卑屈になってしまっている人にも

何か届くものがあるかと。

文庫だし、いかがでしょう。

2014_05_16_arinomama_kokoroya

『心屋仁之助の 「ありのままの自分」に○をつけよう』

心屋仁之助 著
三笠書房(王様文庫) 刊
¥648

ちなみに巻末のカード袋の開け方は、ご本人がブログで伝授されてます。

うん、赤線を入れておけばよかったですね、テープのほうに(^_^;)

■新刊の袋とじの「ひらき」かた

http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-11851972495.html

 

 

言われたことは上手に「使う」

ここのブログを読んでくださっている方のなかには

苦しみを抱えておられる方も、いらっしゃることと思います。

そういう方は誰かから、あるいは私のこのブログでも、

「イヤなことを言われた」と感じたときに、

心の弱い部分に刺さって深く傷ついたりされることも

きっと、あるでしょう。

そしてたまたま、私が拝読している、

心についてのヒントをいつもくださるブロガーさんが、

一昨日と昨日、3人も連続で(!)

「そう受け止めているのは自分」ということについて

見解をいろいろ述べておられ、

そうだよなあ、それをどう「使うか」だよなあ、と改めて思えました。

で、そういう方向で話を書いてみます。

他者の何かの言動で「傷ついた」と受け止めた場合。

誰かに直接言われたにせよ、記事などを読んだにせよ、

その受け止め方をする際には、心の内側で実は

「自分を守りたい」という気持ちが、必ず働いています。

そしてそれは決して、悪いことではないと思えます。

「自分が大事」であることは、とても大切な感情、心だからです。

が、しかし。

ここでやっかいなのは「そのあと、それに対する解釈を

どうつなげるか」の部分。マズイ例をいくつか挙げてみましょう。

パターンA:「やっぱり私がダメなんだわ」

→言ってきた相手にとって「たまたま今回そうだった」ことが、

なぜかいきなり「世界中の人から指摘されたかのごとき

絶対真理」に、勝手に変換される。

この場合は「今回、この相手に、たまたまそう解釈された」

という「事実」を、自分がまず客観的に把握しようよ、という話。

そして「過去の記憶」も同様に客観的に見て、

それでもなお思い当たる節があって、自分で「ダメ」に思えるなら、

他者にそう思わせる「クセ」をあなたが持っている傾向にあるのかもしれない。

ならば、そこに気をつければいいんじゃない? という「サイン」であって

「あなたが絶対的ダメ人間である証拠」ではないということです。

パターンB:「そういうあなただって、いつも!」「それはあなたのせいで!」

→はい、これは「卵が先か、鶏が先か」……ですね。

口に出すかどうかは「別」として(←ここ、すごく重要!)

今まで、あるいはいつも他者を非難・批判してきたのは、

果たして「どちら」でしょう?

あなた自身がこれまで、

心の中で「他者(その相手のみならず)を、勝手に論評・批判・判断」ばかり

実は「し続けていた」ことを、今回、相手が鏡のように、あなたに示して

くれたってことはありませんか?

ここはかなり、ぶっちゃけて厳しい表現で伝えてみます。

仕事・プライベートに関わらず、もし何か・誰かを批判するなら、

あなた自身がその際に、すでに代替案を持っているべきです。

しかも「自分にとってのみ」「相手にとってのみ」

都合のいい代替案、ではなく、

「双方にとって都合のいい」ものを。

出来上がってきたこと・もの、あるいは起こった「事象」に

文句をつけるだけなら、子どもにだってできるのです。

たとえ相手が「先に」ひどくて、その反論的な批判であったとしても。

あなたが常に代替案を探そうとする(自分だけの決めつけ・確信でなく、

お互いで一緒に探して確認し合おうとする)、そういう姿勢でいて、

いつでもそうありたいと思っているのなら、反射的にせよ、

「あなただっていつも!」という気分にはなりにくいはず。

そしてさらに、もし「ひどい言葉」を投げつけられたにせよ、

それは相手の側も、自分自身に問題を抱えているせいであって、

その人からの八つ当たりの面も結構あることは、想像できうるはず。

そうしたらもう「傷つく」必要も、そこで消えるのです。

パターンC:「どうしてそんなひどいことを言うの?」

→これは「冷静さ」を相手に伝えるためなら、意味アリの解釈です。

あくまで落ち着いて、相手に「なぜ」を問うのであれば。

が、しかし。「哀れを誘う」ための使い方もありますね。

その使い方、つまり「私がかわいそう」につながると、危険です。

「だって私はこうなんだから、○○『してくれたって』いいじゃない!」

はい、まんま「かわいそうごっこ」です。

自分の不幸を相手に見せて「だから特別扱いしてね」って押しつける。

これ、何か問題が起こると、自分への言い訳にも使ってしまいます。

だって私は「こんな状態なんだから」、

ちょっとくらい、いいじゃない。

ちょっとくらい。それはイコール、

「よくないこと」だと心の奥では、自分も知っている。

こうなるともう「ゆるし」ではなく、

甘え、依存、ひどい場合は単なる自分勝手、ですね。

自分でも本当は「ゆるし」てないわけです、現状を。

「たまたまうっかり」ならまだともかく、

それを意図的に続けると、やがて他者は、

はあ、そうですか。じゃあもうあなたを特別扱いするの、

かなり疲れたので、私は離れます。

で、関係がおしまいになります。

この亜流として、先日書いたような「こんなにがんばってるのに!」も

たぶん、含まれることでしょう。

以上、今、私が思いつく、大きな「勘違い・誤解の解釈」3つほど。

ほかにももっとあるかもしれませんが、いずれにせよ

「自分を守りたい」が、変な方向へ走っていってしまうように、

私には思えます。

傷ついたときに

「傷ついた」「傷ついた」「傷ついた」

「ひどい、傷つけられた」「私が、傷つけられた」

「私が」「私が」「悲しい」「傷ついた」

の部分で立ち止まってしまうと。

あなたは自分の「心」の回りに、その言葉と思いの数だけ、

自分を守る、囲うための「立派な柱」を立てていきます。

そうして傷つくたびに、先に書いたような悲しい解釈をつなげ、

つまり、自分が「傷ついた」という思いからは離れず、

その本数だけ、柱を立て続けていったら?

やがて、あなた自身からも、あなたの心は見えなくなります。

「傷ついた私の、傷ついたと思った分」だけの柱が

乱立して、あなたの心を囲ってしまって。

「他者から傷つけられ(続けてき)た、ゆえに

不幸を背負った、あるいはこんなにがんばってるのに報われない、

またはダメな、またはかわいそうな、つまり、どうしようもない自分」

が、はい、大量の柱囲いによって立派に完成、です。

それは自分を守ってくれますが、

逆に言えば、自分「だけしか」守りません。

他者の思いや都合、折り合い、は、そこから消えていく一方です。

そして実は、自分を守っているようでいて、そこから

抜け出せない牢獄みたいなものになってしまいます。

なんせ自分でも「自分の本心」を見えなくしてしまいますから。

そして他者には、そこからあなたを「救い出す」こともかないません。

だってあなたは自分の「解釈」(つまり自分の選択)で、

その柱囲いを立て続けてきたのだから。

柱囲いのなかで「いつか王子様が」

「物語に出てくるような優しいお母さんのような人が」

って、待っていたって、直接的には誰一人、

手が「届かない」のです。たくさんの柱の向こうですからね。

だからその柱、まず自分で、壊していってください。

自分で解釈を変えて、見つめて直してください。

少なくとも途中までは、自力、なのです。

壊し始めてから、つまり実際に意識を変え始めると、

もしかしてその後、助けの手も現れるかもしれません。

でも最初のうちは、自分が「破壊を決意する」しかないのです。

そしてあなたにも必ず、その力はあります。

あるからこそ、そこまでたくさん、柱が立てられたのです。

本当に、ちょっと違う角度に、その力を使ってみるだけでいい。

「何を意味しているのか」「なぜ自分はそう感じるか」を

見つめ直すほうへ、そのチャンスとして、出来事を使うわけです。

そこで立ち止まるのではなく。本当に、チャンスですから。

そのためのヒントを述べてくださっている3人の方を、

勝手ながら今回、ご紹介しておきます。別にイヤミではないですが

今日、こんな指摘について書いた私にこれ以上言われると、

それこそ「傷つく」でしょうから(^o^;)

◎心屋仁之助センセ

■ジャッジする、ということ。

http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-11833428839.html

◎スピリチュアルティーチャー癒羽(ゆう)さん

プラスに働く気づき
(コメント欄で私が質問し、さらに追加のヒントもくださっています)

http://ameblo.jp/healingspaceyou/entry-11846611890.html

◎ワタナベ薫 さん
(「心&身体の美人」に関するカリスマブロガーさん。
プロのコーチングカウンセラー&実業家でもあられるようです)

傷つかない心の作り方

http://ameblo.jp/wjproducts1/entry-11847820426.html

勝手に引用リンクを張らせていただきましたこと、

心からお詫び申し上げるとともに、

気づきを与えてくださったことに感謝いたします。