カテゴリー別アーカイブ: 人との関係

誠意の扱い方

先の記事2つを書いたら

「じゃあ、誠意のない人にはどうするの!」というツッコミが

入ってもおかしくないかな、という考えも現れたので、

その点について、書いてみたいと思います。

(ちなみに文体が「ですます」調になったのは気分です……(笑))

そもそも、私があのような「気持ち」についての記事を書く場合、

そこに「誠意」があることは、基本前提です。

ある、というより、自分が持つ、かな。

誠意なくして、人間関係を作るという発想が、

少なくとも「私には」ないです。

「カギカッコ」つきなのは別に、自慢ではありません(;^_^A

私「は」それを前提としている……ということを、強調したいだけです。

はい、つまりね。

これは練習してみてわかったことですが、

相手の誠意を「求める」ことまでは、仕事(つまり信用取引)以外、

実はもう、必要ないかな、と。

といっても、相手に誠意がなくてもいい、ってわけではなく、

自分が誠意を丁寧に示せば、たいていの場合、返ってくるので、

わざわざ求める、ということを、しなくてもよくなったのです。

そんなことはない? それは性善説すぎる?

はい、でも、返さない人とはやがて、あっさり縁を切ればいいだけで。

そこにも、こだわりや抵抗がなくなったわけです。

ああ、残念だな、で、おしまいにできるようになった。

もちろん、そこに行き着くまで、とくに最初のほうは、

私も「怒り」は感じます。何じゃコイツ、です。

以前、久々に怒りの感情が湧いた、という記事も書きましたが

(えーと、3月20日の「違和感を感じたら……」という記事でございました)、

そこでもお伝えしたように、相手の様子を冷静にみていって、

どうもこりゃ、無理だな、と思えたときにも落ち着いて(相手の問題を

自分が引っかぶることはもう私、選択しなくてよいと思えているので)、

あなたがそれを選ぶなら、私のほうは、いったん割り切ってしまうわね、

という練習をしていったところ、

怒りを長引かせずに、するりと距離を置けるようになったのでした。

ゆえに現在、私にとって、

誠意っていうのは「自分が示す」もの、です。

相手がどうするかは相手の問題なので

自分は「指示」できないもの(たとえ相談はできても命令はできない、

命令したところで相手がそれゆえ余計に嫌がり、結局は無駄)だと。

これは、聖人君子でも何でもありません。

割り切ってしまうところまでいったら、ある意味、最終通告。

完全に縁を切るところまでは、最初は選択しませんが、

それでもいったん、その人と距離を置く。

つまり単に、私が冷たくなるだけです。ははは(^_^;)

さっきの記事でも何度か書いたように、駆け引き、的な意識の部分、

コントロールやら優位性を手放すと思えたら、こういうふうに

ラクになったわけです。自分が悩まなくてすむ。

なのでもしかしたら、以前の私のほうが、相手にとったら

扱いやすかったかもしれません。ちゃんと怒るし(笑)、それを示すし。

今はわりと怒らず冷静に「それ、どういう意味で言ってるか、

教えてもらっていい? なぜ?」っていう感じで、

必要に応じて意図を尋ねる場合もある。

その際、相手がもし万が一「ズル」していたら(自分だけ

得をしようとしてたり、相手を利用しようとしてたり)、

この静かで丁寧な向き合い方、たぶん相当「怖い」のだろうと思います。

こちらが別に見透かしたわけではないのに、勝手に相手は、そう受け止める。

するとね、相手も真摯に、自分を振り返らざるを

得なくなるようなのですよ、はい。

そうして私は、大切な人ほど、ちゃんと向き合ってもらえるようになって、

ズルもされないですむようになっています。

自分が怒って催促したり、意図して狙わなくても、

誠意を持って丁寧に接してくれるわけです。

ゆえに私にとっては、誠意は「単純に自分が相手に示すもの」になりました。

相手がたまたま示さなかった場合も、様子を見るようになった。

先の話のつづきで「メールの返信が返ってこない」話を例にすると、

「実はあのとき、大変だったんだよ~」ってなことも、

やっぱり相手に、起こっていたりして。

ああ、よかった、様子見て。

ヘンにプンプン、怒りを示さなくてすんだ。

そういう状況が、「相手に任せる」を意識し始めたら

本当に「激増」したのです、実際。

なのでまあ、誠意については、自分が先に、なるべく確実に。

相手の誠意のほうは、相手に任せる。

もし自分が失敗したとき、結果として手抜きになったときがあったら、

ごまかさず、あとから素直に、真摯に謝る。

そのときの相手の怒りも(あるなら)受け止めて、丁寧にお詫びする。

私にとっては、そういう扱いをするものになりました。

そのほうが、人間関係においてはいろいろ、想像外のメリットも

勝手に湧いてくれて、うれしい、ありがたいことが増えるんですよ。

しかも自分が全般的に気持ちよく過ごせて、とてもラクです。

そんなことを、さくっと、お伝えしておきます。

 

追伸:胸襟を開くってことは

先に書いた話のなかで、胸襟を開く、ということに対する、私の感覚。

それは、相手がどう受け止めるかの部分を、

相手に任せる。

自分がどう伝えるか、どう受け止めるかは、

自分できちんと考える、感じる、

ってことだと思える。

相手の受け止め方まで、自分が望んだ通りになるよう

コントロールしようとするのは、支配したい、上位に立ちたい、ってこと。

裏を返せば、そのためには「したくもない、へりくだり」をも

しかねない。せざるを得なくなるかもしれない。

それをするくらいなら「こう感じるんだけど、どうだろう」って、

へりくだらずに、または怒らずに、

相手にきちんと相談したほうが、

よほど自分のためにもなるんじゃないかな。

その相談自体を受け止めるかどうかも、もう、相手の判断だしね。

相手に聞く耳がない、受け止めてくれないなら、

それが続くことによって、

私は苦しくなる、悲しくなる、

自分の気持ちに折り合いがつけられなくなる、

って、伝えていけばいいのだと思える。

それでももし、まだ届かないなら、その相手との信頼関係が難しいってことだ。

信頼関係を作りたい、と思えるような、

自分にとって大事な相手であるのなら、なおさら、

自分の気持ちを大切にして、それと「同じくらい」に

「相手が感じること、その中身についての相手側の自由を尊重する」

という視点も、大切にしていきたい、と。

あくまで対等に、真摯に向き合う。

ヘンに手抜きせず、自分の気持ちにも嘘をつかず、思いを伝える。

駆け引きでも甘えでもなく、ね。

そういうのが大事だ、と思えたタイミングのときには

真摯に、丁寧に、たとえ表現がヘタでも言葉を伝えられる程度には、

相手を先に信じてもいいのでは、と、私には思える次第です。

 

信頼、という感覚

昨日、サブの「ひと休み」ブログで紹介した本でも

「信用」と「信頼」の違いについて書かれていて、

これは昨今、よく話題になっている

「メールやメッセージのやり取りが相手から返ってこない」

という不満にもつながっている話だと思えたので、少し書いてみる。

私がふだん、電話やメール、LINE、Facebookその他でやりとりしていて

日常生活でも気軽に会っている友人たちとの間では、

「都合をすり合わせ一緒にやる、その予定の連絡」以外なら

最初にまあ1往復、やりとりすれば

(報告だけなら片方のみ書く場合もある)、

その後、相手から返事が返ってこなかったとしても

お互いが、別に不満でも不安でもない。

たぶん、読んでもらえたんだろうな、でおしまい。

「既読」の案内表示が出るツールもあるから、

それだと確実にわかるしね。

なので、緊急の用事確認ではない、一般的な会話で

たとえそれが恋人であっても、

返事が来ない! と「怒る」意味がよくわからなかったのだ。

で、今回、本をきっかけに、今までの知識や記憶も

含めて考えてみたのだが、

怒ったり不安になるのは「自分の言葉がどう受け止められたか」を

確認しないと気が済まない、っていう面が、まずそこにあるのだろう、と。

習慣的に、自分が最後に送って会話を終わらせたい、という

感覚の人もいるし、「そうか」で終わって返事をしないタイプもいる。

それは、相手を知っていればだんだんわかることだし、

ある意味、選択の自由だと思う。

そして、律儀に「返すべき!」と思っている人から見れば、

返さない、あるいはすぐに返事しない人は「礼儀知らず」「恩知らず」

みたいに思えるかもしれない。

でも、たとえ心配や思いやりを発揮しての場合であっても、

「私が会話を始めたときは、あなたも必ず返しなさいよ!」

って、何かヘンじゃない?

相手にだって、たとえ忙しくない時間帯でも

落ち込んでるときや眠いとき、があるかもしれない。

急に食あたりになって、吐いてるかもしれない。

家族の誰かにたいへんなことが起こったかもしれない。

または「これ、返事が『そうですか』だけで終わるから、

もう返さなくていいかな、そんな短いのを返しても、逆に失礼だし」

みたいに思われている可能性だってある。

そして、相手側の事情、相手側の都合って、自分一人の想像だけで

確実に正確に、間違いなく把握できるものなの?

そんなの、わからないよね。「いつも」とかの決めつけになるよね。

なのに一方的に「礼儀知らず」だの「軽くあしらってヒドイ」だの

「嫌われたかな」「嫌がられたかな」って予想して、

落ち込んだり、動揺したり、怒ったり……。

おいおい、そこまで気になるなら、あとから

確認すれば済む話じゃない? って思う。

そして、そのとき同時に

あなたもまた、自分の都合(感覚)を相手に対して

「受け容れてよ!」って、要求してるんだよ

ってことに、気づいていてほしい。

私にはすぐ(必ず)返事ちょうだい! っていうのを求めてる。

大切に扱って! の欲求が、隠れてる。

「返事がすぐ来る」という状況そのものによって

自分が「大事にされている感」を確認したい、ってさ。

そういう、認めて認めて! なサインを

思い切り出していることもありうるんだよ。

とくに、自分が返事を書きにくいときは

すぐにあるいは別に返事を返さない、

そういう場合もあるなら、

じゃあ、相手にもそういうことがあるんだよ。以上。

それだけの話なのだ。

これは社会心理学の本などでも、また紹介した本にも

書かれている話だけど、

「必ず○○がある(はず)」という保証がある関係って、

「信頼関係」ではなく「信用取引」なんだよね。

返してちょうだいね、の確実性がないと、やり取りできないのなら、さ。

そしてそれは「駆け引き」や「優劣」「上下」につながる話で

損得勘定が混じる。それゆえにあなたは「自分のことしか考えない」

状態にさえ、陥りやすくなる。

「どう思われたか」の評価を、自分が気にするときはとくにそう。

相手の「気持ち」「都合」「事情」「状況」が視点から消えて、

つまり「思いはからい」の視点が消えちゃってて、

それよりも「自分」がどう思われるか、が中心になってるよね。

「自分」中心、自意識に集中しちゃう。

あなた、自分のことしか、考えてない。

ってことにも、なってしまう危険性があるのだ。

ねえ、相手から「信頼」されたいなら。

自分がそういうふうに「信頼関係」を築いてもいいかな、

と思える相手なら。

「あ、きっと事情があるんだろうな」って、

自分から先に、受け止めてあげなよ。

自分が先に、相手への信頼、つくろうよ。

「そんな、先に自分が相手を信じて

もし、だまされてたらどうなるの?」

うん、何かビジネスの取引でも始めるのなら、

その心配はまあ、有効だけれど。

そうじゃなくて心の関係、近づいて心を開いて会話して、

そういう関係を作りたい、と思える相手なんでしょう?

なのに、先にまず、疑うの?

「損したくない」って、あくまで自分を中心に、

自分を優位に立たせたいの?

その保証が先に必要なのは「信用」関係であって、

「信頼」関係ではないよ?

それを必ず相手に先に求めるのなら、あなたは「信頼」関係、

本当は築きたくないんだよ。

傷つくのが怖い。だまされるのが怖い。

わかるよ、でも意見の相違が起こったら、議論もケンカもする。

それは「当たり前」だよね。

先に相手が心を開いてくれたらいいじゃない?

うん、じゃあその間さ、

「私があなたを信頼できるようになるまでは」

相手にずっと「一方的に信じて奉仕しろ」と?

……わかるよね、無茶な話だってことは。

あなたが求めているそれって、

結局は上下関係、自分が「支配」したい関係だよ。

自分が上になりたいの。

自分の気持ちや都合に合わせて、常に相手をコントロールしたいの。

自分を中心にして「ちやほや」してね、の関係。

そしてそれは、信頼関係、ではない。

傷つくこともある。ケンカもする。腹も立つ。落ち込まされることもある。

自分だって逆に、相手に「そう思わせる」ことだってある。

でもそうなったら、お互いが「修復」を試みる。試みたくなる。

そういう「欲求」を持つことで「雨降って地固まる」、

「信頼関係」がより強固になる。

そしてお互いに「安心」さえできるようになる。

つまりは「ちやほや」されたいだけなら、

あなたは他者との「信頼」関係を結ぶの、すごく難しいままだよ。

じゃあ信じて馬鹿を見て、そうしたら?

うん、離れればいいだけ。

残念です、とても。そう言って、距離を置く、またはさよならする。

信じられた期間は、楽しい気持ちも受け止められました、ありがとう。

たもとを分かつときにたとえ、お互いに罵倒さえし合ったとしても、

そうやってケンカすることで

「自分が『これは大切にしたい!』と思う部分がわかったわ、

そういうの、学ばせてもらった」と捉えれば、

やがて、時間が経ったときに

「ありがとう」の部分を感謝できるようになり、

「ずれた」部分も「自分の学び」に変えられる。

そこがわかるようになれば、怖くなくなっていけるよ。

だって人間関係なんて、一生、練習するものだから。

だからまずは「ちやほや」、上位に立つことそのものを、

あきらめなさいな。

そして自分から胸襟を先に開いて、信じて、

ときには「馬鹿を見なさい」な。

関係性にリスクはつきもの、当たり前。

マイナスが「起こってしまった場合」は

ただ素直に、自分の糧に、しなさいな。

自分が心のやり取りを求めたい、そう思える関係の人を

「自分から先に信じる」ってこと。

やり始めれば、多少の失敗はあってもいずれ、

相性のいい人、必ず、必ず、見つかるよ。

信用、を先に求めつつ練習するよりは

よほど早く上手になれると、私には思える。

もう一度、繰り返して言っておくね。

そんなふうに、私を認めてちょうだい! って、

「相手からの評価で、自分の価値を決める」ような

捉え方をしてるってことはつまり、

「自分がどういう人間なのか」を相手に決定しろと求めている。

なのにその過程においては「自分のことしか考えてない」。

自分が認められたい。優位に立ちたい。安全圏にいたい。

相手の状況や気持ちよりも先に「自分」が優先。

それだと結局、相手への「思いはからい」も、難しい。

信頼関係を築きたいなら、

相手からの判断で自分を「認めよう」とするの、やめたほうがいいよ。

そして自分を「中心にする、相手より優位にする」

という発想そのものも、やめていくことをオススメしたい。

信頼関係を築く練習を、本当に難しくするだけだから。

今回はなんだか、偉そうな書き方になっていてごめんなさいね。

これもまた、流れのままに、です。ご容赦ください。