月別アーカイブ: 2015年3月

習慣、という表現で

昨日と一昨日に私が書いていた話の追伸、みたいな記事に出会えた。

とてもわかりやすく表現してくださっているので、

今日はそれをシェアしてみるね。

 

このところ他の方の記事シェアも多いけれど、

それだけステキな話がたくさん見つかるってことだから、私もうれしいのよ(*^^*)

 

そして、自分の中でつながっていくものを大事にする。

そういうことにも、私自身、素直になっていけています、どうやら。

そんな変化の現れなのかも。

 

さて、この方は、心の予防、をテーマに活動されている。

でもこの記事は、実際に心が痛んでいるときにも、

有効なことが書かれていると思えるよ。

 

内側を放置して、外側の何かだけを得ようとやっても苦しいまま。

でも、内側だけ見つめて(自分の悪い点だけを見つめて)、

否定し続けるばっかりで、そこを何も変えなくても、苦しいまま。

 

たまたま『技術』という表現も使われているから、

一瞬、すごく練習して学ばなきゃいけないかのような印象を持つかもしれないけれど、

そういう意味じゃないよ。他の記事も読むとわかると思う。

 

歯を磨いてみるように、自分を楽しませてあげる練習をする。

縄跳びを跳んでみるように、

ラジオ体操をしてみるように、

自分をうれしくさせてあげる。

 

本当に、少しは習慣化できそうな範囲の、小っちゃなことでいいの。

それを自分が「やってみる」の。

そういうレベルなら、難しくはないよね?

 

怖がらずに、嫌がらずに、やってごらんよ。

ただ、自分の内側を楽しくしてあげる。

ただ、自分のうれしさを、増やしてみる。

 

今、まさに、自分のことをダメだと捉えているからこそ。

それほどまでに自分を傷つけて、痛んでいること、自覚していこうよ。

 

プチなことを少しずつやって、

少しずつ、自分のためにパワーを蓄えてあげて、

やがて静かに自分を見つめてみようと思えるときが来たら、

そのときには、今までのパターンのような

思い込みの批判もなしで、視点の偏りと向き合えると思うよ。

 

ということで、今日はこちらをどうぞ。

この方も著作や連載をお持ちで、それなりに有名な方なので、

とくに紹介の許可は取らずに、リンクさせていただきます。

心、を性格や、過去の記憶、に置き換えて読んでみてもいいかも。

 

◎矢野惣一【潜在意識の使い方を教える専門家】さん
『なんでもかんでも「心のせい」にしていませんか?』
http://amba.to/1xk10mi

 

2015_03_27

Photo by martaposemuckel
Pixabay

 

内側の種。

ま、単なるお節介なんだけどね、話しかけ……。

今日はそこから始めてみよう。

 

ご自身のことを、

スーパー

自由

優雅

などと、いろいろ言い張っておられるわりには、

お金や閲覧数にめちゃくちゃ執着されておられることが

丸わかりの記事タイトルであるというのは

いったい、どういうことでしょう?

 

ちっとも自由でないし

ちっともスーパーではないよね、

くつろぎ、見えないもの。

 

自慢が「必死っぽさ満載」だし。

めちゃくちゃ内心で、何かに縛られまくりですよね。

 

しかもそれ、自分で選んで縛られておられますよね。

それがいい! とか表面上は言い張りながら、

本当にいいか、ご自身でドギバグされていて、

心のなかでは努力しなけれぱ『ならない』だの

これを乗り越えていかなければ『ならない』だの

ギュウギュウに、ご自分を縛っておられる。

 

執着から「~ねばならない」と感じること。

それは恋愛でも、家族や友達等の身近な人間関係でも、

仕事でも勉強でも、本当に

いろいろな場面で起こりうる事態ではあるけれど。

 

他者を貶めず、自分を貶めすぎず、

素直に『改善』を悩んでおられる方のほうが、

よほど好感が持てるし、そっと応援したくなるものですよ?

 

お金という執着の、その奥にあるのは、

自分が認められたい、の気持ちであって、

認められたい、の気持ちのさらに奥には、

自分が幸せになりたい、がある。

 

なのに、なんでそんなに狭い狭い視点のみで、幸せを探すのだろう?

見渡してみたら、違う幸せ、あるんじゃない?

外側に何かくっつけることばっかり、夢見てるけど、

あなたが『幸せを感じる』とき、

その感覚って、当たり前だけど

あなたの外側の部分でなくて

あなたの内側で起こってくるよね?

 

なのにどうして、外側の夢ばっかりで自分の内側を見捨てて

そんなふうに、ないがしろに扱いまくれるのかしら。

 

と、最近、ミョーなペタや読者登録が増えてきたので

(更新頻度が上がったせいだろうな)、はっきり宣言しておくよ。

 

私を含めて、他者は、あなたの幸せのために利用されるべく、

存在しているわけではないから。

幸せは、本来、分かち合えることでもっとうれしくなる種類のものだから。

 

どんなに「出してる」「提供してる」ふりしていても、最後でいつも

「私にそれ、ちょうだい」しか言わない人が(私にはそう感じられる)、

他者と『一緒に』幸せになれるの、難しいよね?

 

仲間とか言いながら、結局いつか、出し抜くことになったり、出し抜かれたり。

で、利用されたとか、怒ってみる?

もともと自分のほうが、他者を利用しようとしてるのに。

 

そんな視点に縛られて孤独なまま、勘違いしたまま、

たとえばお金を得てみれば、わかると思う。

今度は失う恐怖感にずっと縛られて、ますます孤独になるから。

これ、他の外側のものでも同じだけどさ。

 

ねえ。

外側に何かをくっつけるのでなく、

自分の内側からあふれ出すもの、使えばいいんじゃない?

そっちを求めるほうが、よほど『幸せ』に早く近づいていけると、私には思えるよ。

 

そのために、自分というもの、見直してみる作業、してみてもいいんじゃない?

嫌な部分を否定しまくって、見ないふりばっかり、してないでさ。

 

クレクレな方たちからどうも最近、求められるように思えてきたので

(もしかしたら世の中がいろいろ不安定だから、

よけいにそういう人が増加しているのかもしれないけれど)、

これが、私が書いてみたくなった『私に出せるもの』です。

 

あなたのその内側の痛み自体の「視点の偏り」に、

いつか、気づける日が来ますように。

そんなに「クレクレ」と求めなくても、あなたの中には“すでに”あるよ。

あなたにとっての『幸せの種』が、たくさん、ね。

きっと芽を出したくて、ウズウズしながら、あなたを待ってるよ。

 

どうぞ、どうか、それに気づいて、

どうぞ、いつか、お幸せに……m(_ _)m

 

2015_03_26_2

Photo by Hans
Pixabay

 

普通に「いい人」

自分がどう思われるかを気にするあまり、

周囲の人(家族も含む)を見張ってコントロールしようとしてみたり

(そこに、家族をも利用して自分を良く見せようとする心理は、働いていない?)、

あるいは自分のことを見張って毎日毎日、採点ばかり、

1日平均10回はやってるんじゃないか、という方へ。

 

格好いい、頭の回転がいい、等々、

『○○がいい』を目指すのは、そりゃまあ、個人の自由だけど。

 

そんな到達目標云々以前に、

自分のこと、もっと普通に『なごませて』あげたらどうかな。

 

自分のことや他者の反応見張ってたら、笑顔なんか出ないよね。

頭の中、いっつも採点で必死だし。

見張ってて、少しピリピリしてる空気感、出してるよね、きっと周囲に。

 

ねえ、その状態で、どうやって他人からバッチリ好意的な評価、もらえるの?

いつもピリピリしてる方向の空気感の人、あなたは好き?

 

それにさ、そうやって見張るってことは

つまり同時に『自分がどう思われるか』を見つめまくる、

いつもその答えを、視線や思考をめぐらせて求めてるんだよね。

ってことはさ、それ。

結果的に、自分のことしか頭にない状態……ってことにもなるよね。

 

周囲を気にするあまり、

『結果的に』自分のことしか捉えない。

 

普通さ、自分のことしか考えない人のこと、

あなたは「自分勝手」と表現しないかな?

 

とくに何か主張するわけではなくても、内心、すごくビクビクしてても、

やってることは『結果的に、自分勝手』方面。

そりゃ人間関係も、よけいに、いろいろ難しくなりそうだよね……。

 

そんなことより、

今日は日差しが心地いいなー、とか、

花が咲いた-、とか、

このご飯、ツヤツヤでおいしい! とか、

あ、あの、猫、カワイイ! とか。

 

小っちゃい小っちゃい、うれしいこと、

いっぱい探して、自分が受け取りなよ。

そっちのほうにもっと、アンテナ張りなよ。

 

そうしたら、自分が単純に、楽しくなっていけるから。

 

まさか「自分がうれしくなんて、なってはいけない!」っていう縛りを、

自分につけていないよね? 

苦しいからこそ、ときに自分を罰したくもなるのに、

最初からそんな制限つけてたら、

苦しいまま、罰して、よけい苦しくして、さらに罰したくなって。

それ、何も変わらないよね。というか、悪化させてるよね、状況。

 

小さいことでうれしくなれたら、肩の力、ふっと抜けたりしない?

肩にバリバリ力を入れまくったまま、

小さなうれしいことを味わっている人、

少なくとも私は、見たことないよ。

 

肩の力を抜いて、そのときは、

「見張るもの」あれこれも、その時間も少なくして、

うれしかったなー、なんてふうに、自分の中で反芻でもしててごらんよ。

ほんわかした笑顔気味の人に、だんだんなっていくし、

周囲にもそう見えてくるから。

 

そんなふうになっていて、

いつも笑顔気味の人がさ、たとえば、ぼそっとしたひとり言で

「このジュース、おいしい……」ってつぶやいたら?

なんか、それだけで場の空気感、なごむ感じがしない?

それを「聞いた人」が、なんとなく微笑ましく感じるんじゃない?

 

そうやって結果的に、あなたは『なんとなく、いい感じの人』になっていく。

周囲が、あなたの柔らかさを、意図しなくても、自然に受け容れていく。

結果的に、そうなる。

やっていった『あと』で、そういう雰囲気が生まれるのよ。

 

格好いい人、みたいに『○○がいい人』に憧れまくって、

今のように、ただ苦しいままでいるより、

まず『普通にいい人』に、なってみればいいじゃない。

自分がちょっとずつ、いつもうれしくて、周囲も勝手になごめる人。

ピリピリした空気感、とくに発しない人。

 

そんな人には何が何でもなりたくない! とか格好つけて、肩肘張って、

自分と周囲を見張るあまりに、心の中ですぐ文句言ってみたり、

恐ろしくて他人に背を向けたり、オドオドしているよりは、

普通にいい人、のほうが、

自分がよほど、苦しまずにいられると思えるけどな……。

 

それがわかっていてもまだ、あなたは『平凡、平均なんて嫌だ!』と望み、

達成できない自分と、認めてくれない他者をいつも、心のなかでにらみつけながら、

延々、ピリピリし続けるほうを選んでいくのかしら。

 

普通にいい人、1ヵ月くらいやってみなよ、

たぶんそれ以前のあなたのイメージなんて、他者は忘れていくよ。

そして「普通にいい人」が、あなたに対する、普段の印象になる……。

 

『○○がいい』という夢を叶えるの、そのあとでも良くない?

 

他人と自分、他人と自分、自分自分自分、採点、自分、他人、自分

とかいう視点じゃなくて、

人間以外の他のものも見渡して、そっちのほうで、

先に自分をラクに呼吸させてあげたらどうかな?

小さなうれしいことを、出会えてありがたく思って反芻するだけでも、

今よりは少なくとも、あなた、変わるんじゃない?

 

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Photo by a-mblomma
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