気づき……感謝をこめて

他者が、どんな道を選んでいても

それは間違いではなく、

そこには実りがあり、学びがある。

 

実ってないように、そのときには思えても

自分が養った実に気づくタイミングが

あとから来たりするんだよな、と。

 

もし気づきが来なくても、それはそれで、

そのときにはもう、その人には

そのことについての気づき自体、必要なくなっていて、

次のステージにいるから、だったりする。

 

そんなことを感じさせてくれる経験に出会い、

そういうふうに、他者の力を、

信じていいんだな、と、改めて思えた。

 

そして、つまりそれは、

自分にも当てはまることなのだ、と。

 

そんな気づきを与えてもらったことに、

改めて、感謝します。

私はこれからも、見守らせていただきます。

もがきながら、苦しみながら、それでも、

変化の途中を私に見せてくれて、ありがとう。

 

2015_12_19

Photo by obsidianphotography
Pixabay

 

うまくいかなかった『ショック』

ねえ、そのショックを引きずるのは

「私は物事をうまくいかせられないダメ人間」という

思い込みがもともと自分の中にあったり、

「認めてもらいたいのに」という依存があるから、ではないのかな?

 

自分ができていることは「当たり前だもの」とか言って

それが今、できていること、その環境への感謝も持たないで

ひたすら「認めてもらってよい気分になれること」ばかりを望むの?

 

逆に、自分が、どこかの他人から何かを望まれたとき、

その他人に対して「どうしてもその気になれない」こと、あるよね?

そのことは自分で普通に選択できるよね?

 

なのに、自分が望む相手から、

自分の望みとは反対のこと(その気になれないから断る)をされたら、

それは「許されないこと」だったり、

「私が悪いからだわ」なんていう思い込みにまで、発展するの?

 

相手がその気になれないのは、相手の選択の自由ではないの?

自分がその気になれないことは、断るのだから、

相手もまた、自由に選んでよいのではないの?

 

なぜそれは、許せないの?

なぜそれを「私が至らないからだわ」なんて形にまで、

発展させる必要があるの?

 

しかも、過去の例まで持ち出して、

「だからやっぱり私は」なんていう

『自分のダメさ加減の証拠集め』に使うのはなぜ?

そんなふうに証拠集めをして、何を意図しているの?

 

その過去の記憶もさ。

良い思い出は、思い出したあとで必ず、

「今はそれがない」という気持ちにつなげて、

「それを失ったのは自分のせいだわ」とかいうふうに

いつも自分を卑下するために使ってるよね?

 

未来に、もう、そんな良いことは起こらないのだ、

と勝手に決定して嘆いているよね?

 

なぜそんなふうに、良いことは二度と起こらない、につなげるの?

未来なんて、決まっている人、いないのに。

 

逆に悪い思い出は、いつも、そのまま全部を場面ごと、

今、まさに目の前で起こっているかのようにしっかり思い返して、

記憶の中に保っている、暗い感覚をわざわざ『強化して』味わい、

最後には、未来にもまた、

それが繰り返されるに違いない! と決めつけているよね。

 

つまりは、過去の記憶を、良かろうが悪かろうが、

『今と将来の自分』を傷つけるための道具として、扱うんだよね。

それを、自分で選んで決めてるんだよね。

 

なぜ、そんなことになるかというと、

他人から認めてもらわないと、良い状態とは言えないんだ!

と、あなたが信じ込んでいるからだよ。

 

私も過去、仕事方面でこれをやっていた。

で、その思い込みって、常識だと思ってたよ。

確かに鬱のど真ん中に至るまで、私もやっていたんだ。

 

自分の悪い部分は、消さなくちゃダメ。

いけないところは無くさなくちゃダメ。

周囲の人より、できるだけ素晴らしくならなくちゃダメなんだ!

って感じで「認めてもらうために頑張る」をやってた。

 

だから、認めてもらえない=私がダメな証拠。

だからその都度、あらゆるダメ出しをして

最後には、常軌を逸した手段で頑張ってみるしかなくなった。

人間としての「通常」を超えた範囲の無理を、自分に強いるのは、

私も昔、得意だったんだよね……。

 

さらにその後、

「鬱」という、脳みそが暗い回路のほうへつながりやすい状態になったら、

もうひたすら、動けない自分にダメ出しして、

自己を罵倒して、自分をわざわざ傷つけるだけだった。

 

前にはできていたのに! などとしか思えなかった。

そんなことを思うから、過去の記憶も、

悪いことばかりに、私もつなげたりしてた。

それを当たり前のこととして、やってたんだ。

 

なんせもうね、

『気をつけていないと、私はすぐに

至らないことをしてしまう、至らない状況になってしまう

本当は弱くてダメな人間』と信じ込んでたから。

で、勉強もスポーツも仕事もやる。

心の奥で、怖いと感じていたからこそ、やりまくる。

 

歪んだ優等生ごっこしてたなあ、

びくびくしてたなあ、

至らない自分がいることがバレるの、

めちゃくちゃ怖がっていたなあ、と思える。

 

その「リキミ」、ものすごく無駄だし、

自分を痛めつけることにしかならない。

 

そんなことしなくても、

おびえを動機にしなくても、自分が楽しみたいから、で良かった。

やること自体を楽しみたいから、頑張って良かったんだよ、私。

 

あなたも今、おびえからやっているなら、

あるいはおびえから、できない自分を罵倒しているなら、

昔の私のように、そこには必ずヘンな思い込みがあるからさ。

何かができるようになるとかじゃなく、

その思い込みのほうを、解除するのが先だよ。

ただ解除してみよう、ってやるだけでは、そのおびえを消せないから、

そもそもどうして、そのおびえが存在しているのか、

自分がどんな思い込みを今まで『自分の常識』にすり替えてきたのか、

そこは、怖いだろうけれど、

きちんと向かい合わなきゃいけないと思うよ。

 

いっぺんに全部でなくてもいいから、

一つずつ、ヘンな思い込みをほどいていかないと、

いつまでたってもあなたは、思い込んだまま、他人に何とか

してもらおうとする(実際に相手に求めるかどうかは別として、

他人に認めてもらえることばかりが正しい在り方だと信じ続ける)。

そしてその思い込みがあるからこそ、同じ失敗を繰り返しては、

ショックをそのたび、延々と引きずって、悪い記憶を強化する。

で、さらに「やっぱり私は」をまた強化する、そのループの中に

とどまり続けるのだと、今の私には、感じられるよ。

おまけに過去の記憶を、悪いほうにしか使えないままだ。

 

過去に同じ経験をしたからこそ、私は今、あなたに言うよ。

自分をもっと、ゆるめてあげよう。

そのヘンなループは、自分に必要ないのだから。

そのためにやるべきなのは、

勇気を出して、

『ループが始まった原因』を知ること。

何かのやり方を変えることではなく、

ループしている理由のほうを、知っていくことなのだ。

 

2015_12_18

Photo by vickisdesigns
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そのときになって、わかること

今日は、詳細をぼかして書いていきます。

 

自分の、プライベートな部分で起こった出来事。

失恋とか、そういうことではありません(笑)

身内ではない人との関係について、ではあるけれど。

 

16~17年前の自分だったら、強烈に恐れて泣きわめいたかもしれない、

そういう種類の「ようなもの」がやってきた……たぶん。

 

その前触れ、ともいえる、とある『お知らせ』の到着。

 

まあ、その関係についてはね。

当時、すごく苦しんだけれど、

自分なりに、徐々に割り切っていけたことだったし、

やがて、鬱を経過したのちは、

はっきり、自分が変わったことは知っていた。

そこはもう、感覚的にも、つかんではいた。

 

が、やはり、一瞬、軽く動揺して「来たか……」とは思ったな。

そりゃそうか、そういう種類の話だから。

 

逆に言えば、その程度、ではあった。

いざ「それが来た」ら、そのとき自分はどうなるだろう、

なんて想像は、とくにしたことなかったけれど。

 

そうか、今、私は、こういうふうにその事実を

受け止める人になっていたか……。

 

たまたま、それを知ったのは、

睡魔に負けて昨夜9時半から寝始め、

目覚ましなしで目覚めた、今朝の5時半。

 

そのときの自分の感覚。

うーん、来たのかな、これ、どうやら。

まだ「そう」ではないかもしれないけど、でも、そうかも。

 

さて、どうしていこう。

確かめるタイミングは、年内なのか、年明けなのか。

年明け……か。

そのほうが感覚的に、自分の気持ちには、合う。

 

ショック? とかいう感じのものではないな。

これから先の、悲しい経験……の『始まりの知らせ』かもしれないけれど、

まあ、すでにある意味、覚悟はしていたからね、過去に。

 

自分がある決断をしたときから、それに対して覚悟はしよう、と決めた。

相手の人にも、そのことは伝えたし、そのとき、意図は通じたと思う。

 

ゆえにずっと、自分が静観し続けてこられたことでもあった。

 

いやでもね、本当に。

自分の想像や予想なんて、当てにならない部分、大きいね。

自分が捉えられる範囲の「予想」なんて、やっぱり枠が狭くて、

たかが知れているんだ。

そうなってみて……そのときになってみて、初めてわかるんだ……。

 

今回、自分で自覚できたこと。

私は、思っていた以上に、大きく変化していた。

昔は恐れていたことを、もはや恐れなくてよくなっていた。

 

悲しみのかけら(大きいかどうかもわからない)がこの先、

自分の内側にやってくるとしても、

私はそれを、どうやら、大切に扱えるわ……自分のために。

 

そのときが「現実」になって、わかった。

私はそれを、こういうふうに受け止め、感じ、咀嚼して、

次に、ではこうしよう、と、すんなり、決められた。

過去だったら、泣き叫んだかも知れない事態に対し、それができた。

 

うん、そういうふうに変われていた自分に対し、本気で安心できているな。

予想もしなかったことだけれど、

少なくともこのプロローグの時期における結論は

「私はそんな自分を、自分で誇りに思っていい」

だわ……。

驚いたけれど、それが自分のなかに浮かんでいる言葉だ。

 

そういうふうに土台から、積み直しを図ってこられたことを、

今、改めて、感謝したい。

まあ、泣くときは泣くだろうけれどさ、

願わくば、この気持ちを、最後まで貫けますように。

うん。私はもう、何があっても、私をいちばん大切にしていいのだから。

 

2015_12_11

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