嫉妬=自分の『現実』を見たくない、さらに……

起業カウンセラーであり、心のセラピストでもある

大野木さんの、この記事を読んで

◎大野木睦子さん
「おまえに嫉妬とは何か、教えてやる。」
http://ow.ly/WrtGY

嫉妬って、

自分では今、できていないことを

自分で認めるのが「本当は」怖いから

他人に転嫁する部分、あるよな……、

と、改めて思った。

 

で、そういう転嫁についてもさ、

認めたくないのは甘えだ! とか

おかしい!

わかってないよ!

などといった批判を浴びせるだけなら、そりゃ誰でもできることで。

 

これを、自分に対してやっている人は

(自己批判・自己非難ね)、嫉妬のさらにその奥側のほうに、

「だってどうせ私は」ダメだし

をいつも抱えているんだよな、と。

 

嫉妬したとき、このままでは何となくダメ、程度なら

それ本当に、ダメだと感じているの? どんなふうに?

という部分からも、

問いかけることは、できるけれど。

 

鬱にまでなっている人だと(なっていない人でもときに)、

自分を心底、嫌っているから、

そんな問いかけをしても(本当にダメ? も一応、心の奥の話だけれど)

だって

どうせ

でも実際に!

だからといって!

という、堂々めぐりの答えしか出ないのだよね……。

過去の私もそうでしたわ。

 

だから、そこまで自分を嫌っている人は、

目の前の問題解決を目指す以前、

何とか改善! を目指す前に、

 

そもそもなぜ、

自分のことをそこまで、ダメでどうしようもなくて嫌いだと

信じている わけ?

という、その方にとっては、

さらに奥の、ものすごく痛い部分を

いずれ、見つめてもらう必要はあるのです。

 

そこを見たくないから、もろもろがズレていき、

いろいろな嫉妬も起こる場合がある……。

 

これ、奥のほうから逆に、捉え直してみるね。

 

自分の一番根底にある、もともとの自己卑下は

いつも当たり前のものとして、放置している

→ 現実問題で発生する問題

→ (例えば)悔しい、どうせ私には無理、できない……あの人はできているのに

→ 嫉妬

 

こんなふうに、奥に何を抱えていても、

現実問題はいつも2番目以降のことだから、

それらだけで表面的に捉えていると、

うらやましい、のあと、

せいぜい、反省して、私も何とかしなくちゃ、と

そのあたりでウロウロして試行錯誤ばかり。

あるいは試行錯誤もできなくて、そんな自分を罵倒。

で、いつも終わっちゃっては、いないかな。

 

2番目以降を何とかしようとしても、

土台が「『当然レベル』の自己嫌悪」なのだから、

何かのキッカケがあれば積み上げたものは、雪崩のように崩れるのよ。

で、勢い、他のモノ(自分以外のモノ)で

何とか埋め合わせしよう、なども始めたり。

 

嫉妬したときに、せっかく、このままではダメ、と言って

これをしてみよう

こうなってみよう

こう心がけてみよう

これを手に入れれば

あれになれば

これをできるようになれば

 

ってやっていっても、自分を嫌ったまま、がくっついていると、

本当の意味では解決には至らないのです。

 

もう少し、説明してみるね。

見春屋でお手伝いさせてもらっている私が

いつも感じるのだけれど、

私に告白してくださる側は、出来事などから、

さらにその奥の自分の気持ちについて

話をすることになる場合が多いのです。そのとき、

とんでもなく嫌な自分、を、
他者に打ち明ける

ってことにも、チャレンジしてくれているなあ……と。

 

それっていつも、すごい! と思えます。

だから私も、そのたびに、

私に話してくださる意味、を、真摯に捉えながら、向き合っています。

 

つまりね、何が言いたいかというと、

嫉妬しちゃったわ

→ こんな自分なんて(また)ダメだわ

 

が繰り返されているなら、それこそがまさに

自分についての深い深い気づき、のチャンスだよ、ってこと。

 

(また)の部分が、いつもくっついてくる人は、

その思いを何度も繰り返してきているはずです。

 

どんなふうに繰り返しているのかというと、

表面に現れた問題を、

自分の思い込み……私はダメ人間、の

『強化』『証拠』に、最初に変換しているの。

 

問題自体をまず『自己卑下に使える現実的な証拠』として捉え、

その「あと」から、それらの問題へ対処しようとする。

いつも先に、そうやって、

現実の問題に、余計な視点をくっつけているのです。

 

すると結局は、目の前に現れてきた問題も、

自分の奥の、また奥にある根っこの思い込みも、当然、

美しく(とてもよい形で)解決することは、なかなかできにくくなる。

しかもその場合、いろいろな思い込みの色眼鏡も、入りやすくなるしね。

 

とはいえ、たとえば「嫉妬から湧き起こる『いつも私は……』な感覚」は

あるわけだから、そこで本気になって、自分の内側を整理し始めれば、

奥の土台のほうの問題へつなげられる糸口は、

必ずちゃんとつかめる、方向性は見えているのです。

 

だから今すぐに、とは言わないけれど、

信頼できる人に、いずれは

『自分で自分を変えるために』土台のほうまで全部、明かしてみる、

そうすることで、自分の奥を見つめる手助けを求める

(整理は手伝ってもらえても、気づいていくのは自分でしかできないからね)、

その勇気を出してもらえれば、と願います。

 

表面でクルクルしているだけでは、もう、

苦しいままだと気づいているのなら、なおさら……。

 

2015_12_30

Photo by Simon
Pixabay

 

余計なこと、してますが(笑)

このブログを書くことを中心に、

私は、ときに、気持ちが赴くままに話しかけています。

特定の誰かに、の場合もある。

 

この話しかけは、私にとって

ドキドキ、ワクワク、ウキャー!

という類のものではありません。

決して『刺激』ではないのです。

 

誰かの記事を読んだりして、

自分の中に、湧いてくるものがある。

そうすると、私はそれを、文章にしたくなります。

 

ときには、怒りに近いものを感じることもあるけれど

(「他者に対する非難、批判」ばかりが続く記事とかね)、

それを「いやいや、これもまた、それぞれの方に必要な過程であって、

そこを私が邪魔するのも違うし、批判の批判は同じことが続くだけ。

拾うとしたらそこじゃないんだ」と思い直すことで、

自分は、ならば何を大切に感じるか、という見つめ直しに使えたりする。

そうすると、また、書きたいことが湧いてくるわけです。

 

まあ、もちろん私も聖人君子ではないので(笑)

はっきりしたキツイ意見も書くし、

残念だ、と思ったその気持ちを「残念だわ、私とは違うわ」って

表現することもあります。

 

それは、まさに私にとって必要な過程なのだと思えるので、

書きたいときは、隠さずに書く。

 

書いていない秘密も、もちろんある(笑)けれど、

そういうことまで含めて、自分なのです。

 

そして、この年末にひとつ、

来年早々も、たぶんだけれど、ひとつ。

自分にとっては「荒波」になるかもしれないな、

と感じられる局面に、私は向かうでしょう。

さらにきっと、5月頃にももうひとつ。

 

これは今のところの予定として見えているもので、

もちろん、大きな荒波にするつもりもないけれど、

波が来たら来たで、まずはそれに合う、

波乗りボードを選ぶつもりで

(別に私はサーファーではないけれど)、

向かってみるしかない、と思えています。

 

なぜなら、私に起こるすべては、

『自分のため』に通る過程なのだということを、

私はもう「知っている」から。

 

うまくいけばカヌーを持てるかもしれないし、

それどころか豪華客船にめぐり合うかもしれない。

逆に、ボードだと思っていたものが、ただの板切れになるかもしれない。

 

それもまた、私の選択なのです。怖いもの、ではなく、学び。

 

そうして、波を越えていく経験のなかで、私が感じられたことは、

たぶんまたここで、何らかの形で

はき出されることになるでしょう。

 

ここで勝手な語りかけの文章を綴るという、ある見方をすれば

本当に余計なことをしているのだけれど、

たまに、それを拾って、ご自身の

糧にしてくださる人に出会えると、

書いてみてよかった、そう受け止めてくださって

本当にありがとう、と思えます。

 

そしてそれが、私にも、力を与えてくれるのです。

 

ということで、2011年の2月から始めた

このブログは、私の心に、

静かで温かい光をときに届けてくれる、

とても貴重な場となっています。

 

少し早いけれど、今年も、

読んでくださった方に、心から感謝いたします。

 

年末にも記事を書くかもしれないですが、

一足早く、年の終わりのごあいさつを

お伝えしたくなった次第。

 

毎度のことながら、今年も、

余計なお節介をしてすみませんでした。

懲りずにまだ続けますので(笑)、

これからもどうぞ、

よろしくお願いいたします。

 

この1年、私のブログを訪れてくださったすべての方に、

改めて、心から御礼申し上げます。

 

2015_12_28

Photo by foulline
Pixabay

 

あなたが見つめているものを たくさん 例示してみようか

一度うまくいったら

ずっとうまく いき続けなければいけないのに

失敗してはいけないのに

ズレが起こってはいけないのに

 

ねえ こういうふうに書いたら

それがたとえ 仕事でも 勉強でも

人間関係でもさ

 

ものすごく都合いい話じゃない?

 

「あなたにとってだけ 都合よくものごとが

進まなくてはいけないのに」

と言っているのと 同じ意味だっていうの わかるかな

 

相手側のほうの選択肢が

そこに 含まれていないことは わかるかな

 

そんなこと あなたはなぜ 信じているのだろうね

そう思っているから ズレが起こるたびに

自分が人間として劣っているからだ

なんて 自分のせいにもする

 

相手側の選択の自由なんて

そこにはやっぱり 含まれない

 

全部 あなただけの視点

全部 あなただけの 都合

あなたの内側での 葛藤と自己完結

 

その範囲でのみ

完璧さを求めていること わかるかな

 

関わる相手にも

何をどう感じて 何を選ぶか

もちろん あなたと同等に

捉え 持っていいものはあるのに

 

あなたは

私にとっての満点じゃなきゃ

世間に笑われて

私が レベル低い人間だと認定されて

悲しい思いをするのよ! って言ってるの

 

ごめんね それって

ものすごく 傲慢だわ

 

そもそもの その「不満足」という

感覚をあなたに常にもたらしている

土台の部分が ズレているんだと思えるよ

 

そうならないと 世間に認めてもらえない

認めてもらったら そこでやっと私も

自分のこと 認められるはずなのに

っていうふうにやってることも ヘンなのだけれど

 

それよりもっと 土台の部分で

私は世間様にとって 恥ずかしいレベルだから

レベルアップしなくちゃいけない

 

その思い込みが おかしいの

そんなこと思い込んでいるから

あなたはいつでも

「自分が恥ずかしい証拠」ばかり

探して集めるの

 

例を出そうか

それなりにこまめに

掃除してある部屋に入っても

あなたは必ず ホコリを探す

 

窓のサッシの隅っこの 

小さなホコリだけを 拡大鏡で見つめては

ほら まだこんなところが いっぱい汚れてる!

って 嘆くの

 

次の日は 高いタンスの上

また次の日は ソファーの裏側

あなたが ホコリだけを探して見つめるから

部屋全体の整いも 目に入らない

見えるはずなのに 見えないと言い張るしね

 

そりゃ探せば ホコリは必ず見つかるよね

病院の無菌室でもない限り 

絶対 ホコリは日々 見つかるよね

 

で あなたは 普通の家屋に住みながら

いつまでたっても ホコリだけを見つめているの

 

その 視野の偏り わかるかな?

ホコリが ほんのひとひらさえ 

舞っていない状況じゃないと

私の場合は 必ず誰かから 何か言われるに決まってるのよ!

それに他の人なら そのレベルでいいのかもしれないけれど

私はそんな妥協 したらダメなの! 

そんなの 本当に素晴らしいとは言えないし

あの人にも 認めてもらえないのよ!

 

って思い込んでいるのよ

これ おかしいこと わかるかな?

見ていないモノがたくさんあるの 伝わるかな?

だから いかにホコリを立てないか

延々 あらゆる部分で

そんな工夫ばっかり努力しても 無理なんだよね

どんなに頑張っても

どんなに誠意を尽くしてやっても 

そりゃ あなたにとっては

失敗の連続でしかない人生だよ

 

視点が 偏ってることさえ

気づきたくないってことかな

視点が偏ってる なんていうのは

「ものごとをうまく いかせられない人」の

言い訳にすぎない って言うのかな

 

土台 見つめ直したほうがいいよ

すごくヘンな 思い込みがそこにあるよ

何がよくて 何がいけないのか

何が素晴らしくて 何がみすぼらしいのか

その偏った 視点から見たら 

そりゃすごいズレを いろいろ

起こしていくと思うよ

 

ましてや最初にも言ったように

そうすることで 相手の選択の自由 

まるっきり無視だからね

 

で さらに結果としては

私にとって都合よくいかない状況なんて

私が 恥ずかしいレベルの人間だと明かすだけなの 

 

私が ダメであることの立証でしかないと

 

失敗したら(ホコリをみつけたら)必ず

そうなのだと 言い張るわけでしょう

ホコリどころか 糸くずでも落ちてようものなら 

ものすごい勢いで 延々 自己嫌悪

 

あのさ 誰に刷り込まれたかは 知らないけれど

それってなんだか 芸ができたら

ごほうびをもらえる

お腹の空いた仔犬のようだわ

 

そこしか見ないのは 

失敗したとしか思ってないからで

そんなのイヤだからって 自分の都合だけで

いつも芸を披露しようと頑張って

そうやってエサをもらいに行ってるんだよね

 

で そんなふうに嘆いて 延々 空腹で過ごすの?

 

たぶん 過去に

あなたを ひとりの人間としては 扱わない相手から

「私を宝石で飾るかのように お前のこと 自慢させろよ!

そういう形でやっと こちらはあなたを 認めるんだからね!」 って

何かと 命令されてきたんだろうね

 

その相手もまた 自分にとって都合よくあなたが動いてくれ

自分の勲章としての『あなた』を示せることを 望んで

芸を高め 称賛を私にもたらせ! と あなたに押し付けてきた 

 

だからあなたは そういうものなのだと思っていた

自分の中で 自分の都合で 動かしていくものなのだと信じた

 

そして あなたは 相手が言うところの

「立派さ」を体現しないと

愛というエサも 他のいろいろなエサも

もらえないって 信じ切っているのだろうね

 

あなたもまた 自分を

それ以外の道理がない 永遠に芸を見せる必要がある仔犬のように扱い

エサをもらえなければ 反省ばかりして

自分のダメな証拠だけを集め続けるのよ

 

それを 脇で見ながら 

あざ笑っていたのは誰だろうね?

あなたがヒドいやり方で 自己調教するのを見ながら 

「まだなの? またあなたはダメなの!?」と

今 ののしっているのは 誰なんだろうね?

 

最初は あなた以外の人が 

あなたを本当に 嘲笑して

エサをくれなかったんだろうけれど

 

今は もう

刷り込み後の『パブロフの犬』のように

あなたが

自分をバカにして ホコリだけを見つめている

そうやってあなた自身が 

自己採点と卑下を 選んでいる かもね

 

自分に対する自信? そんな話じゃないよ

その そもそもの 土台の偏り

あなたが 見つめているもの

あなたが 求めるもの

そちらの偏りに 気づいてほしいと思うよ

 

何かを努力するんじゃなく

偏りを知って そのヘンな努力自体を

止めることのほうを 選んでほしいと願うよ

 

あなたの その おびえ

その 根本の発想が

もうあなたには 必要ないんだよ……

 

2015_12_27

Photo by petkation
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