「俺はね、こう思うよ」と表現できること

私が今、働いている職場の、上司に対して

この人は他者の意見を聞く「用意」をしているな、と思えるのが

タイトルの「俺はね、こう思うよ」という言葉である。

 

この表現は、私がブログを書くときに、

とても気をつけるようになったことでもある。

 

私には、私の感じる「こうしたらいいんじゃないか」という思いがある。

でもそれは「私が感じること」であって、

他者にも『当てはまるかどうか』はわからない。

 

ましてや、こんな「心の内側のこと」を表現しようとしているから

それこそ、それを『正しいかどうか』で言えば、

100人いたら100通りの答えがあるのだということを、

鬱の間に、事例としてたくさん見させてもらった。

 

ゆえに、私は意識的に「ああ、これは私の意見だよな」ということを

ふまえて話せるようになってきていると自分では感じているし、

それもあって「人当たりの良さ」(笑)という評価も、

いただけているのだろうと思う。

 

つまりね、この「自分はこう思う」という言葉を『口に出す』ためには、

2つの覚悟が必要なんだろうと、私は思えるのだ。

 

ひとつめは

「私はこう感じる人間である」ということを、

自分が一方的に他人に押しつけるつもりはない、

と自覚できること。

 

私の意見はあくまで『私個人』の感覚。

だから、はっきりとした表現を使って伝えるような場合であっても、

あくまで『自分が、個人的に、こうだと思った』ということを

意識しながら伝えられるかどうかで、

口調がはっきり、変わってくるように感じる。

 

「これは○○○○だから△△でしょうが!」と表現すれば、

受け止める側に「押しつけ」と受け止められる場合があるけれど。

 

「これは○○○○だから△△だと、私は、そう思うんだよね」

って言われたら、それは「この人個人の『主張』だな」ってことが

ニュアンスとして、伝わるよね?

柔らかくなるというか、押しつけにはならないで済むというか。

 

そういう自覚を自分が持てるかどうか、

そういう視点に立って「他者はどう感じるだろうか」の部分もまた、

拒否せず「待てる」ような感覚を、持てるかどうか。

 

その幅というか余白をつくる覚悟、みたいなものを

自分で持っていないと、言えない言葉なのかも、と思う。

 

もうひとつは、

「自分がこういう考えを持つ人間である」

ということを明かす覚悟。

 

こちらはね、比べてみたらもっとわかりやすいと思う。

「これは○○○○だから、あの、△△なんじゃ……」という表現より

「これは○○○○だから△△だと、私は、そう思うんだよね」

というほうが「主張」として強いよね。

自分の意見を、きちんと伝えているニュアンスが届く。

 

「自分は、こういう考えを持つ人間」だと、

『自分に許可』しているから

「自分はそう思うんだ」と、伝えられる。

 

で、本来、自分がそう感じるっていうことは、

何より先に、自分で自分に「許可」していいのだと、

私は思っている。

なぜならそれは、たいていの場合、

その人自身の「個性」や「感性」だから。

 

さらに1対1の間柄だったら「相性」も関係するかもしれないよね。

同じことをAさんがBさんに言っても、Bさんは悪く受け止めないけれど

CさんがBさんに言うと、Bさんは悪く受け止める、みたいなこともありうる。

 

でもそれはCさんが悪くてAさんが良い、という話ではなく

あくまでBさん側の感性。

他にいろいろな情報や感情が、Bさんの内側にたくさんくっついているから、

Aさんに対しての態度とBさんに対しての態度が変わる。

 

もっと言ってしまえば、そういう情報をたくさんくっつけることにより、

Bさんが「同じことを言われているのに、相手によって

受け止め方……つまり気分を変える」のであれば

それは、Bさん側の何かの「問題」が関わっていたりもする。

 

はい、だからそこは「知らんがな」の世界ですね。

AさんやCさん側の問題ではない部分も、きっといろいろあるだろうと。

 

相手の問題は、相手に任せてよいのです。

そこまで配慮してあげて、遠慮して「△△なんじゃ……」ってやっても、

Bさんにはそれ、伝わらないよ。

 

相手の問題は相手に任せて、

自分はこう感じる人間、ということを伝える覚悟をすれば

「私はこう思うんだよね」って、付け足せるようになるよ。

 

たぶんね、自己主張が強すぎる(押しつける)場合も

弱すぎる(遠慮する)場合も、その裏には

「私を認めてほしい」

の気持ちが、がっちり、くっついているのだろうと思う。

 

認めてくれるかどうかは、相手側の感性であり、

相手側の問題も大いにからんでいたりする。

そこをごり押ししたり、おびえたりするから、

「伝えたい内容」以外のところで、おかしなことになるのだと。

 

私はこれまでの人生で、ある意味、主張し合わないといけない関係、

というか「強く主張しないと、うまくやっていけない」環境下で、

つまりそうするのが「よいこと」と信じて育ち、

でもそこに「私の感じることを認められたい」がくっついていたから、

伝えたいこと以外の部分でややこしい事態を何度も経験し……

(あ、大ゲンカに至って決別、ってところまでは、

ほとんどの場合、進んでないよ。ただ方向としてはそんな感じってこと)。

なんかこれ、違うな、おかしいな、と思っている間に、

別の部分の問題から鬱になって……。

 

そこで『自分で自分がまったく信じられない』という事態に陥って、

やっと、初めて「自己主張」と「わがまま・押しつけ」の違い、

自分がどんな育ち方をしていたのか、の客観視、

あらためて「私はこう思うんだよね」と言っていいこと、

でもそれを言うのは「覚悟」がいるんだってこと、等々を

学んできたクチです。

 

うちの上司がどういう過程を通って「それはこうだと俺は思うよ」って言葉を

身につけたかはわからないけれど、

彼も彼なりに何らかの、そういう経過と練習を積んできたんだろうな、

ということは、やり取りからはっきり感じられる。

なので仕事を進めるうえで、お互いに安心して

「これは△△じゃないか」をぶつけられて、話し合えるのである。

 

そういう方が直属になってくれたことは、

アウェーの身(笑)としてはありがたい限り。

さらにもう一人のお偉いさんも「受け止める幅」を持っておられる方なので、

私の「異業種での経験」を使ってほしいと感じてくださっている

(ゆるい、というのは、そういう意味では素晴らしいね)。

 

ということで、根本的な感覚として

「女性というのは、守ってあげるもの、という愛玩物」

が主流の業界、ある意味、不思議な男尊女卑が成立しているという

「気持ち悪さ」もまた、感じる職場であるにも関わらず(笑)!

ふだんから私も「自分はこう思う」を使うことができ、

認められたい、わかってほしい、という部分にはこだわりすぎずに

『伝える覚悟』と『受け止める覚悟』の両方、

そのバランスの取り具合を日々、練習させてもらえていると思える。

そう、もちろん私も、まだまだ練習が必要なのだ(^▽^;)

だからその部分では今の職場に、すごく感謝しているm(_ _)m☆

 

2015_10_10

Photo by Gadini
Pixabay

 

拒絶と選択

すみません、自分のことに(まだ)かまけていく

必要があるようなので、再び他の方のブログシェアで。

 

このところ言い続けている

理屈でものごとをやろうとするがゆえに

苦しいんだよ、の話で、

別のよい表現をされている方の記事を

見つけられたのでシェアします。

 

有名な方ですが、私はたまたま、

この方のブログは読者登録していません。

たぶん、向いている方向の範囲、というか

『幅』が、結構、違うのだろうな、

という感じです。

 

でもこの方もオッサン入っておられるので(笑)、

文章は好きで、友達からFacebookで

シェアされているときにときどき、読みに行きます。

そしてパシッと心地よく感じたりする。

 

理屈でないところで、感覚で、

しかも流されてその場の雰囲気でなく、

『ああ、これだわ』と思うところまで

行ってみる(待ってみる)のもひとつ。

 

併せて、心屋さんの少し古いFacebook記事も載せるので

(続きのところが「もっと見る」や「その他」と表示されない方は、

下のほうにある日付のところを押せば、全文読めるはず)、

可能ならログインして、コメント欄も含めて読んでみてください。

 

何を自分が決めていくか、そのために、

どう自分で「腑に落として」いくか。

決して仕事だけの話ではなく、ね。

 

迷いはあっていいし、時間がかかってもいいのです。

それは自分にとって必ず、必要なルートだから。

そこを非難するから、ややこしいことになる。

『自分が決めて、やってよい』という意味を、

逃げ、ではない部分でつかんでいただければ幸いです。

 

◎秦由佳さん
『それ、選んでいるんじゃなくて拒絶しているよ。』
http://amba.to/1KYM8xb

 

◎心屋仁之助さん

 

ステキな記事に出会えたことを、今日も感謝します。

 

Photo by ゆんフリー写真素材集

 

自分を大切にするために、なぜ他人を使うのか、の話

今日は「自分のことを嫌っている人」に向け書いていきます。

ある特定の他人を憎みすぎて苦しい人には、少し、当てはまらないかもしれない。

その点はおゆるしください。

 

自分のことを嫌っている人って、たいてい、

他の誰かからすごく「してもらおう」とする。

認めてもらう

優しい言葉だけでなく態度、扱いをもらおうとする

ほめてもらう……等々。

 

自分が、自分のことを全然認めていないくせに

(はい、あえて強調しますよ)、

他人からもらおうとする。

 

なぜなの?

なぜそれを自分で、自分に対してできないの?

何を「自分に優しくしちゃいけない」

って決めつけてるの?

自分がしちゃいけないことなら、

別に他人も、あなたに対しては、しなくていいよね?

 

そんな、ひどい! と感じる人、多いだろうけれど、

そこは本当に、矛盾しているのですよ。

自分ではやらない、でも他人からは絶対、何が何でも、ほしい。

だからもらえる相手がないと、

とたんに「さみしい」「一人でいるなんてイヤ」と言い出す。

 

他人を、そんなことばっかりに使うから、

相手も疲れるんだっていうことに、気づいてもいいんじゃない?

そういう「他人の使い方」をする人は、

同じく「そういうあなたの使い方」をする人にも出会いやすいから、あなたもまた

「相手側に『認めてもらう』ってところで自分をこき使われたとき」の苦しさを、

今までにいっぱい、味わっているはずだよ。

 

やりたくないときにも、一方的に

「私を認めろ! 大事にしろ! しかも私が言う通りに!」

なんて感じのことをやられて、

その要求に応えきれなくて、苦しんできていたりするよね?

 

で、自分は自分を認めない、

でも相手からは何をしてでも絶対、もらおうとする、

その部分が矛盾しているからと

「だったら、もう、もらわないもん!」

というふうにすねる(絶望する)のも、まあ、あなたの自由だけれど。

 

別にさ、あなたが、誰よりもいちばん、

自分で自分に、優しくすればいいじゃない。

自分を差別している、その「気持ち」が

どこからやってくるのか、を探して行けば、いいじゃない。

 

自分を差別して見下げてバカにする気持ちって、

赤ちゃんのときには、持ってないよ、間違いなく。

あなたが「後天的に」選んできたこと。

 

もちろん、世の中にはひどい親や身内や 知人っていうものが

存在するから、そういう人から「強制されて」、

その思考方法を学んできたって人も、たくさんいると思う。

実際、自分では自分を認めない代わりに、子どもからもらおうとする人、

そういう大人(親)の例も、たくさん知ってるよ。残念ながらね。

 

だからといってあなたが、そこに「とどまり続けなければいけない」理由など、

まったくない。これっぽっちも、ない。

 

その場合、強制してきた人は、あらゆる圧力をかけて

あなたをそこに止まらせようとすることでしょうよ。

恩知らず! っていう言葉を簡単に吐くとか、ね。

はい、そこで、宝刀抜きましょう、心屋さんの。

知らんがな。

それはその人自身の問題であって、あなたの問題では、ない。

 

自分が、自分に気を配ってあげる。

自分が、自分を、優しく扱う。

自分を嫌って否定してバカにしている人の場合はね、

それが土台になっていってこそ、本当の意味で

「他人からの優しさを『まともに』受け止められる」人になるよ。

今までみたいに「よかった、この人は私を認めてくれた」なんて、

いちいちそこで安心するような事態に、陥らないで済む。

 

自分で、自分を安心させていいのだ。

何の根拠も、理由も、目標達成も、まったくいらない。

赤ちゃんのときすでにそうやって生まれてきたの。

それが「自然な状態」 であって、

今の、他人を使って安心できないと、

自分では、自分を安心させられないことのほうが、

よっぽど「不自然」なのよ?

 

「そのためには○○できるようにならなければいけない」

などといった理屈を、あなたはいつまでこねて、

その不自然な(刷り込まれた)状態を続けていくの?

 

いつまで他人を使って安心し、

本当の意味での感謝とありがたさを、その相手と共有せずに生きていくの?

 

あなたが、自分を不自然なままにしていることのほうを

選択しているんだってこと。

その選択は、根拠、理由、何かの達成といった

屁理屈は一切必要なしで、

変えていいんだってこと。

 

ええ、屁理屈ですよ、それ。

ごめんね、はっきり言うけど。

「まだ○○できていないから」なんていうのは、

自分を認めたくないがゆえにあなたが使ってきた、

ただの「言い訳」です。

 

そのために「自分が抱えているものに気づいていく」ほうへ

意識を向かわせることが、できるようになっていく日が来ることを、

私は心から願いながら、いつでも、遠くから、見守っています。

 

他人を、そんなふうに使わなくても、

あなたは、だいじょうぶなんだよ。

あなたは、いつからだって、

自分に優しくできる人間になっていいんだよ。

他人を扱うように自分を扱う練習、してみてね。

苦しみ、喜び、自分の声を、ちゃんと聞いて、

自分と「一緒になって」、その一つひとつを親身に感じてあげてね。

 

2015_10_04

Photo by sogard
Pixabay